立原村
たてはらむら
折原村の東に位置し、北は荒川を隔て榛沢郡寄居村。戦国期には鉢形城の城下にあたるといわれ、当村の小名に立原小路・後小路・寺町の呼称が残る(「風土記稿」など)。天正一八年(一五九〇)の鉢形攻防戦の際、当地南部にある車山(二二六・八メートル)の山頂には本田忠勝指揮下の道中二八人持という大砲が据えられ、城中を砲撃して落城の端緒をつくったといわれる(「鉢形之由来并町田之年譜」町田家文書)。田園簿では高一六一石余はすべて畑で幕府領。ほかに曹洞宗東国寺領一〇石・浄土宗増善寺領八石・日蓮宗城立寺領七石がある。
立原村
たちばらむら
[現在地名]加茂町立原
北に赤川が流れ、南東は前原村・養賀村・下佐世村(現大東町)、西は近松村。元亀元年(一五七〇)八月一四日の野村信濃入道に宛てた吉川元春外連署書状(閥閲録)によると、末次城(現松江市)在番の見返りとして「立原百貫」などが与えられている。天正一五、六年(一五八七、八八)頃の吉川広家領地付立(吉川家文書)に立原一〇〇貫がみえ、このうち七〇貫は井上豊前、三〇石は桂左馬が領知している。
立原村
たつわらむら
[現在地名]福知山市字立原
由良川の支流牧川左岸に位置する。村中を但馬街道が通り、ここから出石街道が分れる。
「丹波志」に高一一〇石とある。福知山藩領。立原の地はかつては十二村の内に含まれていたが、慶長七年(一六〇二)福知山城主有馬豊氏は、但馬街道に旅宿がない不便を解消するために、十二村の一部、街道筋に新町の設定を命じた。同書に、
<資料は省略されています>
とある。また丹波国天田郡牧庄立原村御代々諸役御免許状写(立原区有文書)六通のうち、慶長七年のものによれば、立原の境域として西方は谷川の下を限り、東は堂のある所までを町分として指定し、当村上納の地子米(地租)は郷帳記載の立原の高分のなかに山役・夫米が含まれたものとして一括徴収することとし、そのほかの役はいっさい免除したのであった。
立原村
たちはらむら
[現在地名]大野村和
北浦に注ぐ境川左岸にあり、北東は小見村。鎌倉初期、常陸大掾氏一族の鹿島三郎成幹の五子久幹が当地に進出して城館を構え、立原氏を称した(常陸大掾系図)。正元二年(一二六〇)四月二八日の静寛譲状案(烟田文書)には「常陸国内国府買領、長門国吉永庄、若海買領、鹿島立原買」とあり、行方十郎房静寛は嫡子松正丸に当地の所領の一部を相伝している。建治三年(一二七七)一〇月一三日の平幹時譲状案(同文書)にも立原の名があり、同様に幹時は亀松丸へ譲渡している。応永二三年(一四一六)立原氏は上杉禅秀の乱に禅秀に荷担して敗れ、没収地は烟田氏の所領となったといわれる(大野村史)。
立原村
たちはらむら
[現在地名]河浦町立原
東は碇石村(現新和町)、南西は津留村に接し、船倉川と一町田川の合流点にある。下島のうち最も内陸的な気候で山間部がほとんど。久保田遺跡・南尾遺跡など縄文遺跡が多い。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳に高一二〇石七斗余とある。壱町田組に属し、庄屋は本多家。万治二年(一六五九)石高半減により八九石四斗余となった(天草風土考)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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