斎藤氏(読み)さいとううじ

改訂新版 世界大百科事典 「斎藤氏」の意味・わかりやすい解説

斎藤氏 (さいとううじ)

中世の武家家門。藤原氏の庶流を祖とすると思われるが確実な根拠はない。

(1)史上初めて斎藤氏の名が現れるのは平安末期で,源義朝の被官斎藤実盛は本貫が越前で実盛の代に武蔵長井に移住し,保元・平治の乱に功を立てたが,のち平宗盛・維盛に仕えた。その子宗貞は維盛の子の六代を守って嵯峨にかくれたが,のち出家した。また平氏では平重盛に仕えた滝口入道として著名な斎藤時頼がいる。

(2)鎌倉・室町両幕府の奉行人を務めた斎藤氏。先祖は未詳だが,幕府初期より幕政に参加し,1225年(嘉禄1)評定衆に就任した斎藤長定以降,幕府奉行人を輩出した。また六波羅探題検断方にも鎌倉後期に斎藤基明なる奉行人が見え,のち室町幕府奉行人家の斎藤氏はおそらくこの系統であろう。建武政府の雑訴決断所五番方にも斎藤基夏なる奉行人が見え,これは1343年(興国4・康永2)室町幕府の奉行人であったことが明らかであるが,さきの基明の一族と推定される。室町幕府では,三善康連の後裔である飯尾氏と並んで多数の奉行人を一族から出し,将軍足利義教・義政に仕えた斎藤基恒・親基などは政所の事務長たる執事代に昇っている。《斎藤基恒日記》《斎藤親基日記》はその公務日記で,室町中期政治史の基本史料。なお斎藤時基のとき幕府を出奔した足利義材に随従して阿波へ同行したため,1520年(永正17)以降幕府吏員から姿を消す。鎌倉期は北条得宗家の奉行人(御内(みうち))にもなり,室町期にも細川氏ら有力守護の内衆になった者が出た。

(3)美濃守護代家の斎藤氏も祖先が幕府奉行人系の一族と推定される。多治見氏に代わって室町中期に守護代となり,斎藤妙椿(みようちん)は守護土岐成頼を補佐して領国経営を安定に導き,応仁の乱では西軍の一部将として重きをなした。彼はまた文化人としても著名で,東常縁(とうのつねより)等と交際があった。瑞竜寺派の臨済禅を美濃に広めたのは彼の功績といえる。戦国期には斎藤氏の家宰長井氏が台頭し,斎藤氏は衰退に向かった。後に長井新九郎規秀斎藤道三(どうさん)を称し戦国大名となるが,その孫竜興の代に織田信長によって滅ぼされた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「斎藤氏」の意味・わかりやすい解説

斎藤氏
さいとううじ

中世の武家。「芋がゆ」で有名な鎮守府将軍藤原利仁(ふじわらのとしひと)の子叙用(のぶもち)に始まる。叙用が斎宮頭(さいくうのかみ)に任ぜられたことから、斎宮頭藤原を略して斎藤とよばれた。利仁の母が越前国(えちぜんのくに)(福井県)敦賀(つるが)の豪族秦(はた)氏の女(むすめ)であった関係から、斎藤は北国一帯に栄えた。加賀斎藤氏とその支流の富樫(とがし)・林、越前国を本拠とする疋田斎藤(ひきたさいとう)・河合斎藤(かわいさいとう)などである。越前斎藤の流れでは、鎌倉・室町幕府職員の斎藤氏、また、親頼(ちかより)が美濃国(みののくに)(岐阜県)の目代(もくだい)となったのに始まる美濃斎藤氏が著名。美濃斎藤氏は守護土岐(とき)氏の守護代を代々勤め、応仁(おうにん)の乱(1467~1477)のころ妙椿(みょうちん)の代には一国の実権を握り、中央の戦局にも大きな影響を及ぼすなど全盛期を迎えた。妙椿の没後、後を継いだ利国(としくに)は近江(おうみ)の六角征討の最中、占領軍に反対する近江の土民数万と闘い大打撃を被り、退却の途中近江で一族とともに1496年(明応5)自害した。幼少のため征討軍に加わらなかった子利隆が後を継いだが復興ならず斎藤宗家は没落した。斎藤道三(どうさん)を油売りから身をおこした一世の風雲児とするのは誤りで、道三の父はもとは京都の妙覚寺(みょうかくじ)の学僧で、初め西村(にしむら)を名のり、次に長井の名跡を奪い長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう)と称し、大きな力をもつに至ったものである。その子道三は力ずくで美濃斎藤の名跡を奪った。これが斎藤左近大夫利政(としまさ)、後の道三である。斎藤氏はその孫龍興(たつおき)の代に織田信長に滅ぼされた。

[矢田俊文]

『小和田哲男著『戦国大名』(教育社歴史新書)』


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百科事典マイペディア 「斎藤氏」の意味・わかりやすい解説

斎藤氏【さいとううじ】

平安中期の鎮守府将軍で,《今昔物語集》の芋粥でも知られる藤原利仁(としひと)の後裔。越前(えちぜん)を本拠とし,主に北陸地方に繁衍。加賀(かが)の富樫(とがし)氏,越後(えちご)の赤田氏は加賀斎藤氏の一族。越前斎藤氏は疋田(ひきた)斎藤・河合斎藤などに分かれ,前者には鎌倉・室町両幕府奉行人の斎藤氏,後者には滝口入道斎藤時頼の出た武蔵(むさし)の長井斎藤氏や,戦国大名斎藤道三(どうさん)が名跡を継いだという美濃(みの)守護代家の斎藤氏がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「斎藤氏」の解説

斎藤氏
さいとうし

中世の武士。藤原利仁(としひと)の子叙用(のぶもち)が斎宮頭に任じられ,斎藤氏を称したのに始まるという。中世,子孫は北陸地方中心に諸国で繁栄し,越前国を本拠とした疋田(ひきた)斎藤氏からは鎌倉・室町両幕府の奉行人を輩出。同じく越前国を根拠とした河合斎藤氏は,室町時代に美濃国守護土岐氏の守護代となり,妙椿(みょうちん)や妙純らが活躍したが,その後家宰長井氏が実力をのばし,さらに長井氏に仕官していた西村新左衛門尉の子が国を奪って斎藤利政(道三)と称した。しかし,その孫竜興(たつおき)のとき織田信長に美濃国を追われた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「斎藤氏」の解説

斎藤氏
さいとうし

①中世,美濃守護土岐氏の守護代
②戦国時代,美濃の戦国大名
藤原北家魚名の子孫。13世紀中ごろ,美濃の目代として下向。戦国時代,利藤のとき稲葉山城に拠る。のち西村勘九郎(斎藤道三)に滅ぼされた。
守護代斎藤氏を滅ぼした勘九郎が斎藤道三を称す。稲葉山城に拠り守護土岐氏を追い美濃を支配。義竜・竜興と継ぎ,竜興の代に織田信長に滅ぼされた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「斎藤氏」の意味・わかりやすい解説

斎藤氏
さいとううじ

藤原氏の一流。藤原魚名の子孫時長の孫叙用が斎宮頭に任じられて以降斎藤氏を称したという。その子孫は代々北国に栄えた。加賀斎藤氏,疋田斎藤氏,鏡斎藤氏,吉原斎藤氏,河合斎藤氏,長井斎藤氏,勢多斎藤氏,美濃斎藤氏などが特に有名。

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世界大百科事典(旧版)内の斎藤氏の言及

【加賀国】より

…平安後期には院宮分国となる機会が多く,この時期に成立した皇室領荘園の比重が大きい。平安後期以降の在庁の主力は,大江,橘,斎藤(藤原)氏などの外来勢力によって占められ,奈良期以来の郡領氏族の衰退は比較的早い。形成期の武士団の小棟梁は加賀斎藤一門の林氏であるが,白山宮加賀馬場(加賀国一宮)に衆徒(しゆと)・神人(じにん)として身を寄せる上層百姓の寄人(よりうど)化運動が強く,武士団の規模は小さい。…

【岐阜城】より

…戦国時代,長良川の河畔稲葉山に築かれた城。築城者,築城年代とも現在不明であるが,1525年(大永5)には土岐氏の守護代斎藤氏の居城であり,この年の長井氏のクーデタにより斎藤道三(どうさん)の父長井新左衛門尉がこれを奪取したことが知られる。おそらく,1509年(永正6)ころ守護土岐政房がその居城を革手から福光(鷺山城)に移したのにともなって,斎藤利隆(持是院妙全)の居城となったものと思われる。…

【美濃国】より

…石谷(いしがい),多治見,揖斐,明智氏などの土岐氏一族をはじめ,東濃の遠山氏,郡上の東(とう)氏,西濃の宇都宮氏,山県郡の山県氏,武儀郡の佐竹氏などが奉公衆に編成されたのである。これに対して土岐氏は,かつての目代の系譜をひく斎藤氏を守護代に任じ,斎藤氏に支配の実権をゆだねるというかたちで領国を安定化させていった。応仁・文明の乱に際し,土岐氏は西軍につき在京して戦ったが,留守をまもった斎藤妙椿(みようちん)は,国内の荘園,公領をほとんど手中におさめ,その意志が乱の動向を決定するほどの実力を確立した。…

※「斎藤氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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