私学校(読み)しがっこう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

私学校
しがっこう

征韓論に敗れ鹿児島に帰った西郷隆盛が,1874年6月設立した学校。銃隊学校と砲隊学校から成り,篠原国幹村田新八がそれぞれ主宰した。鹿児島県下に 136の分校をもち,経費は,旧藩から県庁に引継がれた積立金をあて,県令大山綱良の支持のもとに士族を基盤として成立した。西南戦争の際にはその主勢力となった。

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デジタル大辞泉の解説

し‐がっこう〔‐ガクカウ〕【私学校】

私立学校。私学。
「関左に雄視している―」〈蘆花思出の記
西郷隆盛が退官後、明治7年(1874)郷里鹿児島に創設した学校。西南戦争では西郷軍の中心となった。

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百科事典マイペディアの解説

私学校【しがっこう】

西郷隆盛征韓論争に敗れ下野したのち,1874年鹿児島に創立した士族中心の学校。篠原国幹の銃隊学校と村田新八の砲隊学校とからなり,城下ほか県下各地に分校をもち子弟を教育した。県令大山綱良の積極的支持を得て,経費も旧藩の積立金を用いた。のち西郷派士族の政治的・社会的結社の様相を帯び,西南戦争の際西郷軍の主導勢力となった。

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世界大百科事典 第2版の解説

しがっこう【私学校】

鹿児島に設立された鹿児島士族中心の学校。西郷隆盛がいわゆる征韓論で下野した後,1874年6月,旧厩跡に設立された。本校は旧近衛兵の銃隊学校と砲兵出身者による砲隊学校よりなる。前者は篠原国幹が主宰し生徒数は500~600名,後者は村田新八が監督し生徒数約200名であったという。学課は軍事のほか《春秋左氏伝》などの漢学をも講じ,また校中を数十組に分け,輪番制で日々の当直をきめ,出校は午前9時,退出は正午とされた。

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大辞林 第三版の解説

しがっこう【私学校】

私立の学校。
1874年(明治7)、下野した西郷隆盛が郷里の鹿児島に建てた学校。銃隊学校と砲隊学校からなる。 → 西南戦争

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

私学校
しがっこう

明治初年、鹿児島に設けられた士族の学校。1874年(明治7)征韓論に敗れ下野した西郷隆盛(たかもり)に従い、鹿児島出身の軍人・文官のうち辞職帰郷する者が数百名に及んだが、これらの青年に一定の方向を与え指導統御するために、旧厩(うまや)跡に創立された。篠原国幹(しのはらくにもと)監督の銃隊学校(旧近衛(このえ)歩兵500~600人)、村田新八(しんぱち)監督の砲隊学校(同砲兵約200人)があり、軍事・漢学などを講じた。また諸郷に分校も設けられた。なお広くは、賞典(しょうてん)学校(士官養成所)、吉野(よしの)開墾社(旧陸軍教導団生徒を収容)も私学校に含めて考えられる。西郷派の政治結社的性格も強く、鹿児島県令大山綱良(つなよし)の積極的な支持のもと、県内の区長・戸長・警察幹部などは私学校幹部の占めるところとなった。西南戦争では、私学校派は西郷軍の中心となり、県庁全体が西郷軍の兵站(へいたん)部と化した。[原口 泉]

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精選版 日本国語大辞典の解説

し‐がっこう ‥ガクカウ【私学校】

[1] 〘名〙 私立の学校。私学
細君(1889)〈坪内逍遙〉二「当時此老人漢学の教授に雇はれ、近所の私学校へ通ひ居りしが」
[2] 西郷隆盛が退官後、鹿児島の城山に青年を教育する目的で設立した学校。

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