糸島(市)(読み)いとしま

日本大百科全書(ニッポニカ) 「糸島(市)」の意味・わかりやすい解説

糸島(市)
いとしま

福岡県北西端部にある市。2010年(平成22)、前原市(まえばるし)と糸島郡志摩町(しままち)、二丈町(にじょうまち)が合併して誕生した。市名は、かつて市域が属していた糸島郡の郡名にちなむ。南は雷山(らいざん)(955メートル)など、脊振(せふり)山地の山々をもって佐賀県に接し、東は高祖(たかす)山など、脊振山地から北に派生する山稜で福岡市と境する。北部は玄海灘に突き出した糸島半島で、この半島部と脊振山地の間には糸島平野(中通低地(なかどおりていち))とよばれる肥沃沖積低地が広がる。半島西方には姫(ひめ)島が浮かぶ。JR筑肥(ちくひ)線、国道202号、497号(西九州自動車道)が東西に通じる。糸島郡(一部は福岡市西区)は1896年(明治29)に、それまでの怡土郡(いとぐん)(南部)と志摩郡(北部の半島部)が合併して成立した郡で、「怡土郡」は『魏志』東夷伝倭人条にみえる「伊都国」を継承するといわれるように、当地は古くから対外交流の要地で、糸島半島西側の引津(ひきつ)湾は遣新羅使の泊地であった。中心市街である前原や二丈地区の中心地深江(ふかえ)は江戸時代唐津(からつ)街道筑前二十一宿(ちくぜんにじゅういちしゅく)の宿場町として発展した。現在はJR筑肥線が福岡市営地下鉄へ乗り入れ、前原地区を中心に福岡市のベッドタウン化が著しい。主産業は農業で稲作のほかミカン、イチゴ、野菜、花卉(かき)栽培が盛ん。半島部では沿岸漁業を中心とする漁業が盛んで、半島基部の加布里(かふり)海岸ではノリの養殖も行われている。また人数は少なくなったものの酒造の季節労働(芥屋杜氏(けやとうじ))の伝統が残る。北部の海岸部には芥屋の大門(けやのおおと)(国指定天然記念物)、鳴き砂で知られる姉子の浜、筑紫富士(つくしふじ)(糸島富士)ともよばれる可也山(かやさん)(365メートル)などの景勝地や白砂青松の海水浴場が多くあり、玄海国定公園に含まれる。当地には対外交流の要地であったことを裏付ける遺跡が多く所在する。市街地の西方、雷山川の旧河口に近い微高地にある志登支石墓群(しとしせきぼぐん)(国指定史跡)は弥生時代の墳墓遺跡で、日本で早くから本格的調査が行われた支石墓であり、朝鮮半島系墓制の受容過程を研究するうえで貴重。志登支石墓群の南方、沖積平野に向かって北に延びる曽根(そね)丘陵の丘陵上には、弥生時代前期から古墳時代後期にかけての墳墓、集落遺跡である曽根遺跡群(そねいせきぐん)が展開。遺跡群のうち、平原(ひらばる)遺跡、ワレ塚(われづか)古墳、銭瓶塚(ぜにがめづか)古墳、狐塚(きつねづか)古墳は、国の史跡に指定され、平原遺跡の平原方形周溝墓(ひらばるほうけいしゅうこうぼ)からの出土品は国宝に指定される。雷山神籠石(らいざんこうごいし)(国指定史跡)は、7世紀頃のものとみられる朝鮮式山城で、脊振山地の雷山北側中腹に築かれた。また8世紀には高祖山の西側斜面に古代山城の怡土城(城跡は国指定史跡)が築かれている。これらの城郭は、いずれも当時、大陸・半島との緊張が高まったなかで築かれたものとみられている。2004年(平成16)には「伊都国」時代を中心に糸島地域の歴史と文化を紹介する施設、伊都国歴史博物館が開館。面積215.70平方キロメートル、人口9万8877(2020)。

[編集部]


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