糸田村(読み)いとだむら

日本歴史地名大系 「糸田村」の解説

糸田村
いとだむら

[現在地名]糸田町上糸田かみいとだ中糸田なかいとだ下糸田しもいとだ打越うちこし北区きたく西部さいぶ真岡しんおかはる宮川一区みやがわいつく宮川二区みやがわにく

現糸田町の中部に位置し、北流する中元寺ちゆうがんじ川の西岸および同川の支流たぎり川の流域に広がる沖積地と金国かなくに山系のせきの山・日王ひのお山の山裾に住居が点在する。天文(一五三二―五五)初年以降に伊勢御師の檀廻地となり、慶長一五年(一六一〇)に「いとた」のうち宝積寺と真光寺(ともに現廃寺)、孫七郎の三ヵ所に外宮御師橋村大夫より配札がなされた(「御祓賦日記」神宮文庫蔵)。なお中世に開創された宝積寺は曹洞宗で、天明六年(一七八六)には存在していた(小倉領寺院聚録)


糸田村
いとだむら

[現在地名]田辺市稲成いなり

西にしたに村の北に位置し、東は秋津あきづ川下流のおお(現会津川)、西南は伊作田いさいだ村。村の西から北に熊野街道中辺路が通る。慶長検地高目録には「井佐田村」とあり、村高三八八石余、小物成一斗五升八合。地名は磯田の転訛という(続風土記)。「続風土記」によると、村の南部にある小名尾崎おのざきは西ノ谷村に属するが、人家は当村のうちであるという。正徳五年(一七一五)の田辺組新田御検地書上帳(田所文書)によると、新田一・一町余、高五・三四石。天保三年(一八三二)の田辺組大指出書上帳(同文書)によれば村高四二六石余、新田高五・九石余。雑税は種借利米三・九四四石(元米一九・七二石)、役米五・五四五石、糠藁代米一・二三二石、二分銀五一一・九一匁。


糸田村
いとだむら

[現在地名]甲佐町糸田

白旗しらはた(一三七・九メートル)の南麓にあり、北は北早川きたそうがわ村、東は下早川村と接し、西南は緑川を挟んで津志田つしだ村に対する。室町時代のものと思われる阿蘇山本堂上葺料材切符(阿蘇家文書)に「早河分 糸手村よりこ□□」と記される糸手村は当村に比定される。元禄国絵図に「下早川村之内糸田村」とみえ、近世は甲佐手永に属した。「国誌」に「四堂崎村正鶴村ノ小村アリ」と記される。慶長一三年(一六〇八)加藤清正が緑川治水工事に伴ってくつわ塘を築いて洪水を予防し、灌漑施設として糸田堰を設けた(甲佐町史)。字名は川原・塘・砂原など川に関係したものが多い。天和三年(一六八三)当村惣百姓二八名連判で隠田と非道悪事を理由に庄屋が訴えられ、三月二九日庄屋猪右衛門と百姓五人および有安ありやす村百姓一人が誅伐された(誅伐帳)


糸田村
いとたむら

[現在地名]夢前町糸田

置塩町おしおまち村の北、又坂またさか村の北東に位置し、夢前川の左岸に立地する。慶長国絵図に「いと田」とみえ、その西には「野尾」と記されている。当村枝村に野尻のじりがあり誤記とみられる。慶長六年(一六〇一)の検地高三六石余、反別は田方一町一反余・畑方二町七反余、免四ツ五分(寛延二年「村明細帳」名倉家文書)正保郷帳では置塩おしお村に含まれ、貞享元年(一六八四)の本多忠国領知目録(本多家文書)に独立して村名がみえる。元禄郷帳では「古ハ置塩村」と注記され、高一七一石余。寛延二年(一七四九)の前掲村明細帳によると高一七一石余、反別は田方六町五反余・畑方三町八反余、免五ツ三分、小物成として山年貢米八斗余・郷蔵屋敷米一斗・草藁役銀八六匁余・山役銀二二匁余・山伐役銀二四匁余・柿渋銀一一匁余・御蔵筵藁役銀二匁余がある。


糸田村
いとだむら

[現在地名]金沢市糸田一―二丁目・神田かんだ二丁目・東力とうりき一―四丁目・糸田新町いとだしんまち保古ほご一―三丁目

東力村の南東伏見ふしみ川の東岸(一部西岸)に位置する。北は御供田ごくでん村。正保郷帳では高三三八石余、田方二一町八反余・畑方七反、寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高三七五石・免五ツ七歩(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数五・百姓数七(高免付給人帳)。宝永五年(一七〇八)には家数一八・人数八七、馬二(「高免家数等覚帳」後藤文書)。寛延三年(一七五〇)頃には商品作物として茄子を栽培していた(「組下巨細帳」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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