A.ジッドがその唯一の小説(ロマン)《贋金づくり》(1926)において実現を目ざしたもの。その考えによれば,小説から,小説的でないいっさいの要素,小説にとっては二義的な意味しか持ちえぬいっさいの要素を,極力排除しなければならぬ。このような不純要素とは他の芸術ジャンルでも実現しうるものだからである。たとえば,写真術の発達が絵画をいわゆる写実性から解放したように,蓄音機の普及が在来の小説の克明な会話などを無用とするだろう。また,外的な事件の描写などは映画にまかせたほうがよかろう。考えの筋道はおおよそ以上に尽きるのであるが,さりとて小説固有の純粋要素とは何であるかが積極的に明らかにされたわけでは決してない。かりに《贋金づくり》という作品を〈純粋小説〉の実現と考えるならば,そこからいかなる観念が引き出されるだろうか。小説がなしうること,あるいは小説でなければなしえないこととは,実人生と厳密に対応し相似するもう一つの小宇宙を構成することである。とはいえ,それは19世紀的写実主義を意味するものではない。19世紀の小説は,実人生を作家の恣意的な視点から裁断し,つなぎ合わせて,結末に運んでゆく細工をしてきたにすぎない。自分が目ざしている小説は,作家の視点によってみじんも限界を付されない作品だと,ジッドは語っている。とすれば,小説的でない要素とは,特定の視点から現実をゆがめる要素のことではなかったのか。しかし,これだけであるならば,〈純粋小説〉とははなはだあいまいな観念というほかはなかろう。事実,この観念は従来の小説概念を打破しようと志したジッドが,消去法的思考の果てにその脳裡に浮かべた実現不可能な夢にひとしいものだったのである。ちょうど同じ頃,友人P.バレリーが夢想した〈純粋詩〉が,到達不可能な,しかしなお到達を望むべき一つの夢であったのと同断である。
執筆者:若林 真
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
フランスの作家アンドレ・ジッドの作品『贋金(にせがね)つかい』(1926)のなかで、作中人物の一人である小説家エドワールが、自分の構想する作品に与えた呼称。自作の制作過程をさらけ出した『贋金つかいの日記』(1926)では、ジッド自身のことばで、純粋小説の理念が説明されている。エドワールは作者ジッドの分身なのである。小説から小説に属さないすべての要素を排除する、というのが、純粋小説についてジッドが抱いていた基本的考えであり、具体的には、小説家は神の視点をとるべきではない、ということである。のちにサルトルはモーリヤック批判をしたなかで、神の視点を小説家の視点とすることに反対したが、これはそれを先取りした議論といえよう。前記『日記』のなかの「去り行く者は、その背中しか見えないことに留意せよ」ということばは、『贋金つかい』で忠実に守られており、この小説の各章は、そこに登場する人物のだれか一人の視点を借りて展開していく。この小説だけをジッドがロマンとよんだのは、それがもっとも純粋小説に近い小説である、と考えていたからではあるまいか。
日本では、ジッドに示唆を受けた横光利一(よこみつりいち)が1935年(昭和10)に『純粋小説論』を発表したが、それは横光独自の理論であった。彼は、私小説の平板さに対して、「自分を見る自分」という第四人称を設定して、通俗小説の大衆性と娯楽性、純文学の内面性と思想性とをあわせもつ、おもしろい小説の創造を主張した。『家族会議』(1935)はその実験作であるといえよう。
[白井浩司]
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