改訂新版 世界大百科事典 「河口荘」の意味・わかりやすい解説
河口荘 (かわぐちのしょう)
越前国坂北郡(現,福井県あわら市と坂井市中西部にわたる一帯)の興福寺(春日社)領荘園。河口荘十郷(本庄,新,王見,兵庫,大口,関,溝江,細呂宜,荒居,新庄)と坪江郷(上,下)を併せて北国荘園とも称され,大和国以外の興福寺領荘園では最大規模であった。《春日権現験記》には康和年中(1099-1104)白河法皇が一切経料所として河口荘を春日社へ寄進したと伝え,また興福寺大乗院門跡尋尊の《大乗院寺社雑事記》や1464年(寛正5)〈春日社毎日不退一切経方条々〉には,その寄進は1100年(康和2)のこととしているが,確かなことは明らかでない。しかし藤原利仁の子孫と称した斎藤氏ら当地方豪族が春日明神を祖神とし春日社を勧請するとともに,開発した土地を奈良春日社・興福寺へ寄進し,それが平安末期にはすでに荘園として認められていたとみてよかろう。康和の院宣によって大乗院門跡が一切経検校職をもち,当荘を知行したとされるが,これも確かでない。鎌倉期には東北院(興福寺塔頭)との間でその伝領争いがあって,1285年(弘安8)大乗院門跡の相伝所領であることが認められ,その結果,土地帳簿も整えられて,ここに大乗院領として確立したといえる。これより以前,1206年(建永1)地頭が停止され,また29年(寛喜1)以後は守護不入地となっていた。大乗院門跡に相承された検校職が領家職に相当し,その下に三ケ御願奉行がおかれ給主と称された。現地には各郷に別当,専当,公文,徴士,政所などの荘官がおかれた。荘田は87年〈河口庄田地引付〉と1305年(嘉元3)〈諸庄算用状引付〉とで大差ないが,前者によれば1167町9反40歩である。このうち除田約240町は年貢免除地であるが,その仏神田,本一色田などは名主得分も領家得分も興福寺へ徴収される田地で,斗代は1石2斗であった。除田以外は新一色田,元当新田,古新田,土々呂岐および本田で,それぞれから不作分,損田,人給田などを差し引いた田地について分米が徴収された。なお《大乗院寺社雑事記》にはしばしば河口荘600町歩とみえるが,これは興福寺の仏神田,一色田,佃などの総田数である。
南北朝期になると越前守護斯波高経をはじめ諸勢力の押妨をうけた。室町期以降には大乗院は直務支配を続けるとともに,請負制も実施し,その荘官には堀江,甲斐氏など在地の有力武士が任命され,応仁・文明の乱のなかで朝倉氏がこれらにかわって,やがて荘地の大部分を侵略した。また当地域の在地史料には1458年(長禄2)の称念寺々領目録(称念寺文書)や本役銭,反銭などの収取に関する文書(滝谷寺文書,御前神社文書など)があって,荘内の複雑化した土地権利関係が知られる。朝倉氏滅亡後,一向一揆に押領された河口,坪江両荘の回復について,1574年(天正2)11月大乗院は織田信長に嘆願し,さらに翌年8月信長の越前攻めには大乗院門跡尋憲がみずから信長の陣中見舞として越前へ下向して種々働きかけたが,実現されなかった。そのときの尋憲の日記〈越前国相越記〉は一向一揆討滅直後の凄惨な荘内の状況を伝えている。
なお河口荘十郷が中世を通じて一つの荘園としてまとまりを保ったのは,平安末期からこの地域の開発を可能にしてきた九頭竜川から取水する鳴鹿用水=十郷用水の水利権にあったといえよう。十郷の各春日社は井ノ口神社で,用水を配分する場所にあり,大連家は本庄郷の春日惣社の神官であるとともに用水を管理して荘内の支配的地位にあった。朝倉氏もこの水利権を重視して掌握していたことは1537年(天文6)朝倉氏一乗谷奉行人連署定書(大連家文書)によって知られる。〈越前国河口庄御前帳写〉(春日神社文書など)は各郷の春日社関係の仏神田などを書き上げたものとみられる。
執筆者:楠瀬 勝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報