日本大百科全書(ニッポニカ) 「経世論」の意味・わかりやすい解説
経世論
けいせいろん
現実の社会問題を対象とした政治経済論。広義には、柳田国男(やなぎたくにお)の農政論など、明治以降の議論も含むが、一般的には江戸時代のものをさす。元来、経世論という呼称は、儒学上の用語「経世済民(けいせいさいみん)」(世を経(おさ)め、民を済(すく)ふ)に由来し、政治政策論全般をさすものであった。
この経世論の本格的展開の契機となったのは、元禄(げんろく)~享保(きょうほう)期(1688~1736)以降の社会情勢である。このころまでに、商品経済は全国的規模にまで発展し、商人階級の経済的実力が顕著となる一方、耕地の拡大は鈍化し始め、相対的に幕府・諸藩の財政や農民の生活はしだいに困窮化し、幕藩体制の基礎に影がさし始めたのである。経世論は、このような状況に対して、原則として支配者の立場からその原因を解明し、具体的対策を提示する議論として本格的発展を示した。なかでも、朱子学の唯心論・形式的普遍主義を脱却し、経世論における客観的現実分析の理論的基礎を用意したのは、熊沢蕃山(ばんざん)、荻生徂徠(おぎゅうそらい)などだといえよう。蕃山は、現実の状況「時処位(じしょい)」に即応した礼法の必要を論じ、社会分析の優れた視角を提示した。また徂徠は、理想の社会制度を自然的社会秩序思想から切り離し、その形成を政治的主体の「作為」に求めるとともに、制度文物の帰納的研究による経験主義的歴史認識への道を開き、経世論に新たな段階を画した。しかし蕃山や徂徠の場合、その具体的政策は、なお復古的なものであり、蕃山は兵農分離以前の農兵制を主張し、また徂徠は武士の知行地(ちぎょうち)への土着を理想とした。
この後、この種の復古的議論は幕末に至るまで根強く繰り返され、近世経世論の一特質となるが、一方において徂徠以後の経世論はしだいに商業資本の力を認識し、それに対する積極的対応を献策するようになっていった。徂徠の弟子太宰春台(だざいしゅんだい)をはじめ、林子平(しへい)、海保青陵(かいほせいりょう)は武士階級による商業利潤の把握の必要性を認識し商業藩営論を唱える。一方、大坂町人の経済力を背景とした中井竹山(ちくざん)、山片蟠桃(やまがたばんとう)などの懐徳堂(かいとくどう)に拠(よ)る学者たちは、特権的大商人の立場から商業経済の役割を評価する経世論を展開した。また工藤平助(へいすけ)や本多利明(としあき)などは、蘭学(らんがく)の知識をも吸収し、幕府による海外貿易や属島開発を急務と考え、鎖国体制の否定にもつながる主張を行った。さらに、佐藤信淵(のぶひろ)は、幕末の社会状勢のなかで、平田国学を哲学的基礎とし、また蘭学の知識も利用した経世論の体系化を試み、強力な中央集権国家により物産を開発・交易して富国強兵を計り、軍事的海外発展を進めるべきことを主張した。
他方、このような理論家たちとは別に、近世後期には、農耕や農民指導の実務的経験を基礎とし農政論などを唱えた一群の実践家が輩出した。二宮尊徳(そんとく)は、徂徠学派の思想的系譜に属する「人道作為」の思想により、社会的に農業生産力を維持する合理的基準と勤労の意味を説いた。また大蔵永常(おおくらながつね)は、民富の形成を重視し、農学者の立場から商品作物の栽培を勧めた。また大原幽学(ゆうがく)は、農民の人格的自覚と農民協同に荒村の復興を賭(か)け、独自の農民指導を行った。これらの実践家も経世論の一翼を担う者であったといえよう。しかし、以上のような展開をみながらも、江戸時代の経世論は、非農耕階級の存在を全面的に否定した安藤昌益(しょうえき)のごとき特例を除いて、全体としては、支配階級の統治論の枠を大きく出るものではなかったのもまた事実である。
[島崎隆夫]
『本庄栄治郎著『日本経済思想史研究』(1942・日本評論社)』