江戸後期の蘭学(らんがく)系自然科学と多様な経済論を体系化した近代実学の先駆をなす経世学者。浪人本多伊兵衛を父とし、越後(えちご)国(新潟県)蒲原(かんばら)郡の農村に生まれる。通称三郎右衛門(さぶろうえもん)、号は北夷(ほくい)・魯鈍斎(ろどんさい)。幼時から算学を好み、18歳のとき江戸に出て関(せき)流算法と中根元圭(なかねげんけい)(1662―1733)流天文暦学を修め、24歳のとき算学・天文・地理・測量の塾を江戸音羽(おとわ)に開いた(音羽先生の異名がある)。一時加賀藩に仕えたほかは浪人生活を送った。新井白石(あらいはくせき)を尊敬、山村才助、司馬江漢(しばこうかん)、小宮山楓軒(こみやまふうけん)(昌秀)らの指導を受けて蘭学知識を磨き、西洋の窮理学(きゅうりがく)(物理学)こそ真の学問と考えた。1787年(天明7)飢饉(ききん)の奥州を視察、1801年(享和1)東蝦夷(えぞ)地へ渡航、緊迫する北方問題を体験するなど時勢を直接に受けとめ、『経世秘策』『西域(せいいき)物語』や『蝦夷道知辺(みちしるべ)』『渡海日記』など70点余の著述を残した。人口増を「天理」ととらえ、救済策として「自然治道」を説き、とくに蝦夷地開発に加え、官営渡海交易を急務とした。東京・音羽桂林(けいりん)寺に眠る。
[末中哲夫 2016年7月19日]
『本庄栄治郎解題『近世社会経済学説大系 本多利明集』(1935・誠文堂新光社)』▽『塚谷晃弘校注『日本思想大系44 本多利明・海保青陵』(1970・岩波書店)』▽『ドナルド・キーン著、芳賀徹訳『日本人の西洋発見』(中公文庫)』
江戸後期の経世家。幼名長五郎。通称三郎右衛門。北夷,魯鈍斎等と号する。出身地は不明だが,越後蒲原郡と推定される。18歳で江戸に出,今井兼庭に算学を,千葉歳胤に天文・暦学を学び,関流算学を超えて蘭学に近づき,西洋流の天文・測量・地理を踏台として経世家的蘭学者の道へ進む。24歳のとき江戸音羽に算学・天文の塾を開く。1809年(文化6)から加賀藩に1年半仕官したほか一生浪人を通した。主著《経世秘策》《西域物語》《経済放言》等。経世論形成の動機は,ロシアによる北方の脅威と天明の飢饉の体験であった。国家の理想像を従来の中国から西洋列強へ置き換え,藩体制を超えて日本全体の見地に立つ。鎖国下に万国交易論を唱え,一種の重商主義の先駆となった。〈属島開業〉=版図の拡大を考え,北海道・樺太を開発し,ついにはカムチャツカに日本の本都を移すべきであると主張したが,平和的な手段によるものであった。《日本思想大系》所収。
執筆者:塚谷 晃弘
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(佐藤賢一)
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1743~1820.12.22
江戸後期の経世思想家。通称三郎右衛門,北夷・魯鈍斎(ろどんさい)などと号す。生地は越後国と推定される。18歳のとき江戸にでて和算や天文学などを学び,のち諸国を遊歴し物産や地理の実際的な知識を身につけ,航海術を修めた。ほとんど仕官することなく,江戸に塾を開き門弟に教えて一生を送った。天明の飢饉やロシアの南下を機とする北方問題などへの関心から,蘭学による西洋認識にもとづいてイギリスなどを範とする,新たな富国策の必要を強調し,国土の開発とともに藩体制をこえた重商主義的な国営貿易を行うよう提言した。著書「経世秘策」「西域物語」。
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… 18世紀ロシア船が北辺に出没するようになって海防論がやかましくなった。村上の人本多利明は1798年(寛政10)《西域物語》を著して西洋の事情を紹介,日本のとるべき立場を述べた。松田伝十郎は間宮林蔵とともに樺太に渡り,1808年(文化5)間宮海峡を発見した。…
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[西洋文明の導入]
欧化主義は,幕末に圧倒的に優勢な西洋列強が接近してきた状況のもとで,日本の独立を防衛するためにその文明を導入するという形態をとって勃興した。その源流は〈東洋の英国〉を目標とした18世紀末の本多利明に求められる。しかし,その本格的な展開は,社会政治秩序は伝統を維持しつつ,軍事や科学技術の面のみで西洋文明を導入しようとした〈東洋道徳・西洋芸術〉的立場が克服され,社会政治制度をも含めて西洋文明を全面的に摂取しようとする動向が開始された以後である。…
…この流れから,一方では積極的な開国論が現れる。本多利明や佐藤信淵は,海運,交易を官営として,殖産貿易を発展させ,領土を海外へ拡張することを主張し,信淵はそのための国家制度変革の青写真すらを描いた。彼らには生産と交易,交易と領土拡張が未分化のままとらえられているが,重商主義的と評されるその構想は,西洋強国への対抗策であると同時に,そのまま国内の経済的危機克服策であった。…
…青陵は商業経済の発展を〈理〉の当然,歴史の必然であると積極的に評価し,武士もつまるところ商人で,利潤追求こそ善であり,富国の基であると主張した。青陵の唱えたいわば藩単位の重商主義を,洋学の知識と持ちまえの数理的・合理的資質で前進させたのが本多利明(1744‐1821)である。それには外圧への危機意識も作用した。…
…江戸後期の経世家本多利明が,国を経営し富ますための秘訣となる政策を論じた書。1798年(寛政10)成る。…
…中期になると,山片蟠桃などは天文地理と医術のようなものを実学と考え,海保青陵は学問を経世済民という目的に奉仕すべきもの,今の世に役だつ学問こそ実学とした。本多利明にいたると,蘭学の影響を受け,西洋流の航海術,天文・地理,算数などの海外交易に役だつ学を実学と考えた。 幕末・維新期における実学は,政治と経済を統合する学と目された。…
…日本では1873年(明治6)から太陽暦が採用されたが,一部の人たちにはそれ以前にも太陽暦は知られていた。古くは戦国時代の末ころよりキリシタンの人々に利用されていたが,江戸時代の本多利明は太陽暦の便利さを説いているし,同じころ,中井履軒や山片蟠桃は太陽暦の見本を作っていた。1795年には太陽暦の1月1日に蘭方医大槻玄沢によってオランダ正月が祝われた。…
…出羽国村山郡楯岡村(現,山形県村山市)の農民の子。1781年(天明1)江戸に出て幕府の医師山田宗俊(図南)の家僕となり,のち本多利明の音羽塾に入って天文,測量を学んだ。85年利明の推薦で幕府の蝦夷地調査一行の竿取となり,翌年にかけて国後(くなしり)島,択捉(えとろふ)島を調査し,ついでウルップ島に渡った。…
※「本多利明」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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