本多利明(読み)ホンダトシアキ

デジタル大辞泉 「本多利明」の意味・読み・例文・類語

ほんだ‐としあき【本多利明】

[1743~1821]江戸後期の経世家越後の人。通称、三郎右衛門。江戸に出て、数学・天文学蘭学などを学び、諸国を歴訪して見聞を広め、重商主義的立場から貿易振興による富国策を説いた。著「経世秘策」「西域物語」など。

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精選版 日本国語大辞典 「本多利明」の意味・読み・例文・類語

ほんだ‐としあき【本多利明】

  1. 江戸後期の経世家。越後国新潟県)の人。通称三郎左衛門。名はとしあきらとも。江戸音羽に算学塾をひらく。天文学、航海術などを学び外国との貿易、植民地政策蝦夷地の開発を説いた。著書「経世秘策」「西域物語」など。延享元~文政四年(一七四四‐一八二一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「本多利明」の意味・わかりやすい解説

本多利明
ほんだとしあき
(1743/1744―1820)

江戸後期の蘭学(らんがく)系自然科学と多様な経済論を体系化した近代実学の先駆をなす経世学者。浪人本多伊兵衛を父とし、越後(えちご)国(新潟県)蒲原(かんばら)郡の農村に生まれる。通称三郎右衛門(さぶろうえもん)、号は北夷(ほくい)・魯鈍斎(ろどんさい)。幼時から算学を好み、18歳のとき江戸に出て関(せき)流算法と中根元圭(なかねげんけい)(1662―1733)流天文暦学を修め、24歳のとき算学・天文・地理・測量の塾を江戸音羽(おとわ)に開いた(音羽先生の異名がある)。一時加賀藩に仕えたほかは浪人生活を送った。新井白石(あらいはくせき)を尊敬、山村才助司馬江漢(しばこうかん)、小宮山楓軒(こみやまふうけん)(昌秀)らの指導を受けて蘭学知識を磨き、西洋の窮理学(きゅうりがく)(物理学)こそ真の学問と考えた。1787年(天明7)飢饉(ききん)の奥州を視察、1801年(享和1)東蝦夷(えぞ)地へ渡航、緊迫する北方問題を体験するなど時勢を直接に受けとめ、『経世秘策』『西域(せいいき)物語』や『蝦夷道知辺(みちしるべ)』『渡海日記』など70点余の著述を残した。人口増を「天理」ととらえ、救済策として「自然治道」を説き、とくに蝦夷地開発に加え、官営渡海交易を急務とした。東京・音羽桂林(けいりん)寺に眠る。

[末中哲夫 2016年7月19日]

『本庄栄治郎解題『近世社会経済学説大系 本多利明集』(1935・誠文堂新光社)』『塚谷晃弘校注『日本思想大系44 本多利明・海保青陵』(1970・岩波書店)』『ドナルド・キーン著、芳賀徹訳『日本人の西洋発見』(中公文庫)』

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改訂新版 世界大百科事典 「本多利明」の意味・わかりやすい解説

本多利明 (ほんだとしあき)
生没年:1743-1820(寛保3-文政3)

江戸後期の経世家。幼名長五郎。通称三郎右衛門。北夷,魯鈍斎等と号する。出身地は不明だが,越後蒲原郡と推定される。18歳で江戸に出,今井兼庭に算学を,千葉歳胤に天文・暦学を学び,関流算学を超えて蘭学に近づき,西洋流の天文・測量・地理を踏台として経世家的蘭学者の道へ進む。24歳のとき江戸音羽に算学・天文の塾を開く。1809年(文化6)から加賀藩に1年半仕官したほか一生浪人を通した。主著《経世秘策》《西域物語》《経済放言》等。経世論形成の動機は,ロシアによる北方の脅威と天明の飢饉の体験であった。国家の理想像を従来の中国から西洋列強へ置き換え,藩体制を超えて日本全体の見地に立つ。鎖国下に万国交易論を唱え,一種の重商主義の先駆となった。〈属島開業〉=版図の拡大を考え,北海道・樺太を開発し,ついにはカムチャツカに日本の本都を移すべきであると主張したが,平和的な手段によるものであった。《日本思想大系》所収。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「本多利明」の解説

本多利明

没年:文政3.12.22(1821.1.25)
生年:寛保3(1743)
江戸中・後期の経世家。越後国(新潟県)蒲原郡の生まれといわれる。18歳で江戸に出,関流の今井兼庭に和算を,千葉歳胤に天文と暦学を学ぶ。これらの数学的知識がその学問の基礎になっており,他の経世家との違いを際立たせている。オランダの航海書から航海術(渡海術)を学び,実地の航海も行う。その最終的な思想体系は,天明の飢饉の体験,対露北方問題を背景とした,重商主義的な交易論に集約される。本多には次のような一貫した論理があった。人口増加に伴う物不足は交易によって補うが,島国日本にとって交易に航海は必須である。そして航海には数学,天文の知識が欠かせない。国富を増し,農民の困窮を救う具体的な経済政策の理念を彼は「自然治道」と呼び,火薬の平和利用,鉱山開発,船舶振興,属島開発を「四大急務」とする。特に蝦夷地の開発を強調している。主著『経世秘策』『西域物語』『経済放言』など。算学,航海学の著も多数。24歳のとき江戸音羽に天文,算学の塾を開き音羽先生と呼ばれた。加賀藩に晩年の1年半を仕えた以外は浪人を通した。著名な弟子に蝦夷地探検の最上徳内和算家坂部広胖がいたが,経世家の弟子がおらず彼の思想は長い間埋もれていた。<参考文献>日本学士院編『明治前日本数学史』4巻,『本多利明/海保青陵』(『日本思想体系』44巻)

(佐藤賢一)

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百科事典マイペディア 「本多利明」の意味・わかりやすい解説

本多利明【ほんだとしあき】

江戸後期の経世(けいせい)家。号は北夷(ほくい),魯鈍斎(ろどんさい)。越後の人。江戸に出て今井兼庭に関流の和算,千葉歳胤(としたね)に天文学,山県大弐に剣を学び,24歳で江戸音羽(おとわ)に塾を開く。蘭書によって地理を学び,幕府に推薦して蝦夷(えぞ)地に門人の最上徳内を派遣させ,経世面では貿易の必要と商業の重要性を説いた。晩年は招かれて加賀(かが)金沢藩に出仕した。著書《経世秘策》《西域物語》《長器論》《渡海新法》《蝦夷道知辺(みちしるべ)》など多数。
→関連項目会田安明開国論

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「本多利明」の意味・わかりやすい解説

本多利明
ほんだとしあき

[生]延享1(1744).越後
[没]文政4(1821).12.22. 江戸
江戸時代中期の経世家,和算家。幼名は長五郎,のち繁八。通称は三郎右衛門,号は魯鈍斎。 18歳で江戸に出て,今井兼庭に関流の和算を,千葉歳胤に天文,暦学を学び,23歳のとき音羽に算学,天文の私塾を開いた。晩年に1年半ほど外国御用の資格で加賀藩に出仕したほか一生浪人として門弟の教育にあたり,その間,奥羽,常陸,蝦夷の各地を旅行し,地理,物産を調査して『蝦夷拾遺』 (1789) を著わした。また『経世秘策』 (98) ,『西域物語』 (98) ,『経済放言』などで,蘭学の影響を受けた開国進取の経世論を展開した。『西域物語』には,当時飢餓に襲われていた東北地方への旅上の体験が語られている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「本多利明」の解説

本多利明
ほんだとしあき

1743~1820.12.22

江戸後期の経世思想家。通称三郎右衛門,北夷・魯鈍斎(ろどんさい)などと号す。生地は越後国と推定される。18歳のとき江戸にでて和算や天文学などを学び,のち諸国を遊歴し物産や地理の実際的な知識を身につけ,航海術を修めた。ほとんど仕官することなく,江戸に塾を開き門弟に教えて一生を送った。天明の飢饉やロシアの南下を機とする北方問題などへの関心から,蘭学による西洋認識にもとづいてイギリスなどを範とする,新たな富国策の必要を強調し,国土の開発とともに藩体制をこえた重商主義的な国営貿易を行うよう提言した。著書「経世秘策」「西域物語」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本多利明」の解説

本多利明 ほんだ-としあき

1743-1821* 江戸時代中期-後期の経世家。
寛保(かんぽう)3年生まれ。江戸で算学,天文・暦学,地理学をまなび,明和3年塾をひらく。日本各地を踏査して蝦夷(えぞ)地の開発や開国,外国貿易の必要性を説いた。門人に最上徳内(もがみ-とくない)らがいる。文政3年12月22日死去。78歳。越後(えちご)(新潟県)出身。通称は三郎右衛門。号は北夷(ほくい),魯鈍斎(ろどんさい)。著作に「経世秘策」「西域物語」など。
【格言など】自国を豊饒(ほうじょう)の富国と成さんは,交易のほかに道なし(「経済放言」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「本多利明」の解説

本多利明
ほんだとしあき

1743〜1821
江戸後期の経世思想家
越後(新潟県)の人。江戸に出て天文学・数学・剣術を学び,24歳のとき江戸音羽に塾を開いた。一方蘭学を学び諸国を歴遊して,民間人として初めて蝦夷 (えぞ) 地に渡り,地理・物産を調査した。西洋事情にも通じ,貿易の促進,蝦夷地の開発,商工業の奨励など積極的な重商主義的思想を説いた。主著に『西域物語』『経世秘策』など。

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世界大百科事典(旧版)内の本多利明の言及

【越後国】より

… 18世紀ロシア船が北辺に出没するようになって海防論がやかましくなった。村上の人本多利明は1798年(寛政10)《西域物語》を著して西洋の事情を紹介,日本のとるべき立場を述べた。松田伝十郎は間宮林蔵とともに樺太に渡り,1808年(文化5)間宮海峡を発見した。…

【欧化主義】より


[西洋文明の導入]
 欧化主義は,幕末に圧倒的に優勢な西洋列強が接近してきた状況のもとで,日本の独立を防衛するためにその文明を導入するという形態をとって勃興した。その源流は〈東洋の英国〉を目標とした18世紀末の本多利明に求められる。しかし,その本格的な展開は,社会政治秩序は伝統を維持しつつ,軍事や科学技術の面のみで西洋文明を導入しようとした〈東洋道徳・西洋芸術〉的立場が克服され,社会政治制度をも含めて西洋文明を全面的に摂取しようとする動向が開始された以後である。…

【海防論】より

…この流れから,一方では積極的な開国論が現れる。本多利明佐藤信淵は,海運,交易を官営として,殖産貿易を発展させ,領土を海外へ拡張することを主張し,信淵はそのための国家制度変革の青写真すらを描いた。彼らには生産と交易,交易と領土拡張が未分化のままとらえられているが,重商主義的と評されるその構想は,西洋強国への対抗策であると同時に,そのまま国内の経済的危機克服策であった。…

【経世済民論】より

…青陵は商業経済の発展を〈理〉の当然,歴史の必然であると積極的に評価し,武士もつまるところ商人で,利潤追求こそ善であり,富国の基であると主張した。青陵の唱えたいわば藩単位の重商主義を,洋学の知識と持ちまえの数理的・合理的資質で前進させたのが本多利明(1744‐1821)である。それには外圧への危機意識も作用した。…

【経世秘策】より

…江戸後期の経世家本多利明が,国を経営し富ますための秘訣となる政策を論じた書。1798年(寛政10)成る。…

【実学】より

…中期になると,山片蟠桃などは天文地理と医術のようなものを実学と考え,海保青陵は学問を経世済民という目的に奉仕すべきもの,今の世に役だつ学問こそ実学とした。本多利明にいたると,蘭学の影響を受け,西洋流の航海術,天文・地理,算数などの海外交易に役だつ学を実学と考えた。 幕末・維新期における実学は,政治と経済を統合する学と目された。…

【太陽暦】より

…日本では1873年(明治6)から太陽暦が採用されたが,一部の人たちにはそれ以前にも太陽暦は知られていた。古くは戦国時代の末ころよりキリシタンの人々に利用されていたが,江戸時代の本多利明は太陽暦の便利さを説いているし,同じころ,中井履軒や山片蟠桃は太陽暦の見本を作っていた。1795年には太陽暦の1月1日に蘭方医大槻玄沢によってオランダ正月が祝われた。…

【最上徳内】より

…出羽国村山郡楯岡村(現,山形県村山市)の農民の子。1781年(天明1)江戸に出て幕府の医師山田宗俊(図南)の家僕となり,のち本多利明の音羽塾に入って天文,測量を学んだ。85年利明の推薦で幕府の蝦夷地調査一行の竿取となり,翌年にかけて国後(くなしり)島,択捉(えとろふ)島を調査し,ついでウルップ島に渡った。…

※「本多利明」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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