江戸後期の医師、学者、経世家。名は球卿(きゅうけい)、字(あざな)は元琳(げんりん)、万光(ばんこう)、通称は周庵(しゅうあん)、のち青年に及び平助と称す。紀州藩医長井常安の第3子として12歳まで紀州に育つ。幼にして神童の聞こえが高かった。13歳で仙台藩医工藤丈庵(じょうあん)の養子となる。工藤家は代々の仙台藩医であった。医術を養父に学び、儒学を服部南郭(はっとりなんかく)、青木昆陽(あおきこんよう)に師事。1754年(宝暦4)5月、父禄(ふろく)300石を継ぎ藩医に列せられ、江戸定詰となる。没年まで大過なく藩に仕え、医師としても重視されたが、藩政にも関与するようになり、小姓頭(こしょうがしら)から出入司(でいりし)(仙台藩特有の官職で財務をつかさどる)に進んだ。彼は医術のみに携わることを好まず、学を愛し、多くの優れた友人と天下を論じた。中年に『管見録』(1790)を著し、当世の急務を論じ藩主に奉ったが、いまに伝わらない。中川淳庵(なかがわじゅんあん)、野呂元丈(のろげんじょう)、吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)、桂川甫周(かつらがわほしゅう)ら初期蘭学(らんがく)者と交遊、海外の知識を得た。またオランダ商品を取引し巨利を得た。大槻玄沢(おおつきげんたく)を藩医に推挙し彼と親族の義を結んだ。ともに領内の薬物30種を調査研究し藩政に益した。1783年(天明3)老中田沼意次(たぬまおきつぐ)に献白書『赤蝦夷(あかえぞ)風説考』を提出、林子平(はやししへい)、本多利明(ほんだとしあき)ら江戸期海防論の先駆となった。子平は平助より蘭学の知識、国防論の刺激を受け、兄事していたが、『海国兵談』を著した際に序を請うた。慎重な平助は初め拒否したが、ついに承諾した。没後、江戸・深川寺町心行(しんぎょう)寺に葬られる。
[塚谷晃弘 2016年5月19日]
(岩崎鐵志)
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江戸中期の経世家,医者。名は球卿,号は万光。紀州藩医の子で,江戸常勤の仙台藩医となる。前野良沢,桂川甫周,大槻玄沢らの創始期の蘭学者と親交があり,海外事情に通じていた。他方,営利の才に恵まれ,オランダ通詞と結託して,舶来品を売りさばき,巨利を博したと伝えられる。著書にロシア問題をとりあげて,その対策を論じた《赤蝦夷風説考》,密貿易対策を幕府に献策した《報国以言》などがある。
執筆者:佐藤 昌介
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1734~1800.12.10
江戸中期の医師・経世思想家。名は球卿,字は元琳,号は万光。和歌山藩医の子として生まれたが,仙台藩医工藤家の養嗣子となり江戸詰になる。前野良沢(りょうたく)や大槻玄沢(げんたく)ら蘭学者と親交があり,海外事情を学んだ。1783年(天明3)老中田沼意次(おきつぐ)に「赤蝦夷(あかえぞ)風説考」を献上。蝦夷地開発とロシアとの交易により,ロシア南下の状況に対応すべきことを主張した。この献策にもとづき幕府の蝦夷地調査が行われ,蝦夷地開発計画が立案されたが,田沼の失脚で中止。「独考」を著した女性思想家の只野真葛(ただのまくず)は女。
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[開国論と鎖国論]
海防論はロシアの南下を阻止するための蝦夷地開発論として始まる。その最初とされる工藤平助の《赤蝦夷風説考》(1783稿)は,蝦夷地開発とともに,ロシアと交易を開き,同地での密貿易を禁ずると同時に,ロシアの事情をつまびらかにすることを説いているが,まだ防備にはふれていない。この流れから,一方では積極的な開国論が現れる。…
…名はあや子。仙台藩医工藤平助の娘で,一時藩侯に仕え,のち藩士只野行義の妻となった。著作に東奥紀行の《磯都多比(いそづたい)》,文集《むかしはなし》《不問(とわず)かたり》など。…
※「工藤平助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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初夢に見るものの中で、縁起のよいとされているものを順に挙げた句。[補説]一に富士山、二に愛鷹あしたか山、三に初茄子の値段と、駿河国で高いものを並べた句ともいわれる。...
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