江戸幕府が大名,旗本,町人,農民などに利子をとって貸し出した公金のこと。貸付銀ともいい,正しくは御貸付金という。〈貸付金〉は利殖を目的としているが,幕府貸出金のうちには,このほか幕府が純粋に救済を目的として恩貸した〈拝借金〉と,不時の立替えを幕府が行う〈立替金〉とがあった。これら3種の貸出金はその目的からいって,貸付金は利付貸し,拝借金と立替金とは無利息貸しを原則とした。いずれも江戸時代前期からみられるが,幕府公金の貸出高が飛躍的に増大するのは,領主財政の窮乏,農村の荒廃が深刻化した宝暦~天明期(18世紀後半)以降であり,1800年(寛政12)現在の貸出高は約150万両,17年(文化14)には約300万両,42年(天保13)には約370万両に達した。天保期の幕府貸出金の内訳をみると,貸付金は約260万両で70%を占め,ついで拝借金が25%,立替金が5%であった。
貸付金の利子率はほぼ年1割前後で,民間の金融市場の利子率よりやや低めであった。貸付金は前述のとおり利殖が目的であったから,困窮民に貸し付けるのではなく,大名,旗本の場合は年貢米を,豪農,豪商の場合は家屋敷や田畑を担保にして貸し付けた。この貸付利金は,幕府みずからの財政補塡のほか,農村復興,宿場助成,用水普請助成,鉱山復興などの資金にあてられた。〈荒地起返幷小児養育御手当御貸付金〉や〈宿場助成御貸付金〉などという名目の貸付金は,困窮農民や宿場民に対して直接貸し付けるのではなく,彼らの救済資金を利殖によって獲得するために,富裕な町人,農民に利貸付けすることを意味している。そしてこの利殖金を困窮農民,宿場民らに無利息で恩貸,すなわち拝借金として貸し出すしくみになっていた。このような公金貸付政策は,領主財政の再建や本百姓体制の維持などと密接に関連して,寛政改革以降とくに幕府の重要な金融政策となった。たとえば,寛政年間(1789-1801)における〈荒地起返・小児養育手当御貸付金〉は,約15万両にものぼった。これは諸国代官を通じて富裕農民に1割前後の利子で貸し付けられたが,その年々の利金で〈荒地起返〉(耕地面積の復旧拡大)と〈小児養育〉(農業労働力の増加)の政策を継続的に実施したのである。逼迫財政の幕府にとって,15万両という支出は大きかったに相違ないが,ひとたびこれが元手金となって利殖・運用されれば,その1割前後の利金約1万5000両が年々幕府の金蔵に収納されるわけであり,これが農村復興資金に活用されたのである。幕府はこのほか,〈助郷村々助成手当御貸付〉とか〈用水普請助成手当御貸付〉等々の諸名目の公金貸付けを実施しており,寛政改革以降,幕府の農政にこうした金融政策の導入が目だつようになった。
貸付金の約3分の2は幕府自身の出資金であったが,残りの約3分の1は宮方,寺社の名目金(みようもくきん)や,豪商,豪農など有志の差加金であった。さらに幕府が町人,農民から強制的に借用した御用金も,かなりの額が貸付金の資金に流用された。貸付け,回収の事務は町奉行,勘定奉行,代官,遠国奉行などが取り扱ったが,1817年以後は,馬喰町御用屋敷詰代官役所が総元締めとして貸付金の中枢機関となった。このように貸付金政策は永続仕法として期待されたが,文政から天保期にかけて未返済額が増大し,21年(文政4)には貸付金の利子率の引下げや長年賦返済猶予令を発し,さらに43年には半高棄捐という非常手段を講じなければならなくなり,貸付金政策は行詰りを呈した。なお貸付金政策は,幕府のみならず諸藩においても,類似の仕法が江戸時代後期になるとみられた。
執筆者:竹内 誠
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…また飢饉対策として備荒貯穀を奨励し,村々に籾蔵を設置した。さらに〈荒地起返幷小児養育御手当御貸付金〉という名目の公金貸付けを実施している。これは諸国代官を通じて豪農層に利子1割前後で貸し付けられ,その年々の利金が耕地の復旧(荒地起返)や,農業人口の増加(小児養育)のための資金に活用された。…
※「貸付金」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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