岩本村(読み)いわもとむら

日本歴史地名大系 「岩本村」の解説

岩本村
いわもとむら

[現在地名]鳥取市金沢かなざわ

松原まつばら村の西、湖山こやま池の南西岸にある。南西から北東に流れる長柄ながら(現湖山川上流)が池に注ぐ付近に形成されたデルタ上に集落がある。池中の団子だんご島・ウ島は当村の領分。拝領高は四七三石余。寛保二年(一七四二)の高草郡村々下札帳写(賀露神社文書)によると生高五四二石余、本免六ツ二分、川役米三石四斗・役米二石五斗三升・山札銀七匁五分・藪運上銀二匁を課されている。役米は享保一一年(一七二六)一一月に一石を割当てられたものだが(在方諸事控)、増額は漁獲の増大に伴う措置と考えられる。「因幡志」では川役・世伊古役合計四石九斗三升とあり、役一石が減額されていたらしい。文政一二年(一八二九)の高草郡中構下札目録帳(奥田家文書)によると朱高五一六石余・生高五五二石余、物成三一二石余。川役・藪役は寛保二年と同額だが役米一石五斗三升・山札銀七匁となっている。


岩本村
いわもとむら

[現在地名]岩美町岩本

町浦富まちうらどめ村の西に位置する。蒲生がもう川河口近くの北岸に本村集落があり、南東部の同川南岸に支村久松ひさまつ村、東部の同川河口北側海岸に支村網代あじろ村がある。本村集落を但馬往来が通る。応長元年(一三一一)一一月二日の某寄進状(因幡民談記)によれば網代寺(現観照院)の祈祷料免田として「久松保古川跡」の湿田と畠一ヵ所合計三段一二〇歩が寄進されている。また「大館常興日記」天文七年(一五三八)九月八日条には岩井いわい庄を相伝所領とする三上経実の在京被官久松某の名がみえるが、同氏は久松保を本拠地とする土豪と考えられる。網代村は享保一九年(一七三四)以前に領内に限り一村となっていたらしい(同年鈴木孫三郎所持本「因幡誌」)

拝領高は六一七石余、本免は五ツ二分。天保三年(一八三二)の山林は七反余で、藪役銀四分余・山役米九石余を課されており(藩史)、倉吉荒尾氏の給地があった(給人所付帳)。前掲「因幡誌」によれば高七〇〇石、竈数六〇余。「因幡志」では家数八一。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高七三一石余(網代分も含む)、竈数八五で、ほかに網代寺があった。


岩本村
いわもとむら

[現在地名]宇治田原町大字岩山いわやま

荒木あらき山の東側、大岩おおいわ山東南麓に位置し、東行する信楽しがらき街道と、北東行して禅定寺ぜんじようじ村を経て近江瀬田せた(現滋賀県大津市)に向かう田原道の分岐点でもある。

地名は「禅定寺造営日記」所収の正応三年(一二九〇)一〇月付の奉加人々日記(禅定寺文書)にみえるのが早い。村内の西北山寄りに鎮座する双栗さぐり天神社は、田原郷屈指の古社といわれ、早くから開かれた地である。


岩本村
いわもとむら

[現在地名]今立町岩本

大滝おおたき村の西にあり、越前和紙の特産地五箇ごか地方の一村。文明年間(一四六九―八七)と大永年間(一五二一―二八)の大滝寺々庫収納田数帳(大滝神社文書)に地名を冠する者が数名みえ、大滝寺の年貢賦役を務めている。

慶長三年(一五九八)の岩本村検地帳(岩本区有文書)によると村高は二六五・九七四石で、うち田方二二五石余・畠方四〇石余。同検地帳の写(大滝神社蔵川崎家文書)の奥書に村の定法書が記されているが、農民は大目百姓(二三軒)・中目雑家(一七軒)・小目水呑(一二軒)の三階層に分れ、大目百姓は太閤検地の際屋敷が検地の対象となった旧家で、村の百姓株を保有していた。百姓株のないものは高持でも中目雑家とされ、無高の家は小目水呑に属した。


岩本村
いわもとむら

[現在地名]辰口町岩本

能美丘陵北部に位置し、西から北にかけては灯台笹とだしの村・大口おおくち村、手取川を挟み東は石川郡鶴来つるぎ村・明島あからじま(現鶴来町)と対する。手取川の縁にある大きな岩石のほとりに集落があったことから生じた地名という(加賀志徴)正保郷帳では高二三九石余、田方一一町一反・畑方三町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印写(岩本区有文書)によれば高二五〇石、免三ツ八歩、物成六二石余のうち、四三石余は翌年六月の銀納。ほかに小物成として漆役七七匁・山役二四〇目・川役三五匁があった。


岩本村
いわもとむら

[現在地名]沼田市岩本町

屋形原やかたばら村の南、利根川の右岸、子持こもち山東麓の崖下に位置し、中央を沼田街道西通が通る。「加沢記」によれば、天正一一年(一五八三)下川田しもかわだの平井加兵衛は功により北条氏直より当村を賜ったとされる。寛文郷帳では高九〇石余、うち田方は水損と注記され三石余・畑方八六石余。寛文三年(一六六三)真田領村高書上控では高四〇五石余。宝永元年(一七〇四)沼田領村々石高書上では高一八〇石余、反別は田方一町四反余・畑方三六町四反余。


岩本村
いわもとむら

[現在地名]宇都宮市岩本町

北は下田原しもたわら(現河内郡河内町)、南は関沢せきざわ村。近世初期から宇都宮藩領。慶長一〇年(一六〇五)の検地帳(若色孝之文書)によれば、田は上々田から下々田までの五段階に分け、合計一一町三反余・分米一三〇石余、畑も五段階で、合計二一町三反余・分米九一石余、屋敷六反余・分米四石余とある。元和六年(一六二〇)の検地帳(同文書)では、田合計一二町二反余・畑合計二三町四反余・屋敷八反余で、屋敷持は一六人である。


岩本村
いわもとむら

[現在地名]富士市岩本

富士川の東岸、松岡まつおか村の北に位置する。東海道の富士川渡船場がある。中世は岩本郷に含まれていた。慶長一四年(一六〇九)八月の岩本村御検地水帳(山崎家文書)では高三五八石余。寛永九年(一六三二)幕府領となる。寛永改高附帳では田方二六二石余・畑方一〇〇石余、ほかに実相じつそう(現日蓮宗)領六石・永源えいげん(現曹洞宗)領七石がある。加島かじま新田村の開発が進んで加島岩本村が成立。元禄郷帳では岩本村は高六五七石余、加島岩本村は高二五四石余、国立史料館本元禄郷帳ではともに幕府領。のち加島岩本村は当村に合併されたようで、天保郷帳では岩本村一村で高付されており、高八九七石余。旧高旧領取調帳では幕府領八八四石余、ほかに実相寺領六石・永源寺領七石がある。


岩本村
いわもとむら

[現在地名]富津市岩本

稲子沢いなござわ村の北、みなと川支流志駒しこま川中流域に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二二六石。寛文四年(一六六四)の松平忠勝領知目録(寛文朱印留)に記載があり、佐貫藩領。元禄郷帳では高二四九石余。宝永七年(一七一〇)から明治維新まで佐貫藩領。同年当時嶺上みねがみ山の山守として当村の勘右衛門(一人半扶持)がいた(菱田家文書)。寛政五年(一七九三)村明細帳(高橋家文書)では田八町二反余・畑一〇町三反余、年貢は反取で、米一五一俵余・永五〇貫五二九文余を上納、家数三三、男七九・女九二、農間は男女とも山稼、熊野社・蔵王ざおう社・天神社・山王社・諏訪神社・弥陀堂が記される。


岩本村
いわもとむら

[現在地名]東伯町八橋やばせ

八橋町の南西に位置する。天保郷帳に「八橋宿」と注記されるように八橋町とともに八橋宿を構成していた。拝領高は一九四石余、本免は四ツ一分。漁運上銀五〇匁を課されており(藩史)、津田氏の給地であった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付によれば生高一九四石余、竈数二一。天保三年(一八三二)、八橋分領岩本村で文化六年(一八〇九)に営まれていた鉄山を、再び一〇年間営みたい旨の願が津田氏家臣三名から藩に出され聞届けられている(在方諸事控)。明治一〇年(一八七七)八橋町と合併し諏訪すわ村となり、翌年八橋村と改称した。


岩本村
いわもとむら

[現在地名]竹田市岩本

大野川上流の山崎やまざき川北岸にあり、玉来たまらい村から篠田しのだ村・猿口さるくち村を経て柏原かしわばる(現荻町)や肥後へ通じる道が通る。おか城下から二里。正保郷帳では矢倉やぐら郷に属し、田方二六石余・畑方三四石余。弘化物成帳では玉来組のうち、村位は下、免一〇成、田六四石余(六町九反余)・畑一一石余(二町三反余)・屋敷三石余(三反余)で、開田二斗余(一反余)・開畑一石余(三町二反余)がある。


岩本村
いわもとむら

[現在地名]板取村 岩本・かみ

南東流する板取川東岸に位置し、村の東に岩本洞の谷が続く。南は門出かどで村・松谷まつたに村で、同村との境に枝郷上ヶ瀬がある。中世末に当地に住んだ多田氏は田口たぐち城主長屋信濃守の息女をめとり、長屋と改姓したといわれる。天正一七年(一五八九)七月一五日の板取之内村々検地帳写(長屋文書)に岩本とみえ、高二五石二斗余。文禄三年(一五九四)八月二一日、山年貢三石七斗五升を定められた(「深尾左介外二名連署申付状」同文書)。元禄郷帳に板取岩本村と記され、高二五石余。


岩本村
いわもとむら

[現在地名]前原市岩本

加布里かふり村の東、長野ながの川左岸に位置する。北は千早ちはや新田村、南は神在かみあり村。海浜に位置し、元和三年(一六一七)肥前唐津藩主寺沢広高によって開拓されたという(地理全誌)。寛文四年(一六六四)の唐津藩主大久保忠職の領知目録(寛文朱印留)に村名がみえる。延宝六年(一六七八)唐津藩領から幕府領になる。元禄国絵図では高一五〇石余。享保二年(一七一七)一部が中津藩領となり(中津藩領郷村帳)、天保三年(一八三二)の中津藩領郷村高帳下書では高三八石余。


岩本村
いわもとむら

[現在地名]下郷町豊成とよなり

くら村の南西、阿賀川左岸の山村。下野街道が通る。同街道は阿賀川を渡り、長野ながの(現田島町)に通ずる。南山御蔵入領楢原組に属する。貞享二年(一六八五)の「楢原郷地下風俗覚書」に村名がみえ、高六二石余、うち三〇石余の年貢は長野村に渡る橋守を倉村とともに分担、人足役として延宝元年(一六七三)から免除されていた。元禄四年(一六九一)の万覚書帳(下郷町史資料集)によれば高六二石余、反別田八反余・畑一一町一反余、家数一二・竈数一三、人数七三、馬七。


岩本村
いわもとむら

[現在地名]指宿市岩本

新西方しんにしかた村の北東に位置し、北は海に臨む。延享元年(一七四四)に成立した今和泉いまいずみ郷の中心で、一門家今和泉島津氏の領主仮屋が置かれ、麓・野町が形成されていた。海岸部には高目たかめ浦がある。岩元とも記される。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名がみえ、高四七二石余。「三州御治世要覧」に岩元村と記され、延享頃の高四九九石余。旧高旧領取調帳では高二八七石余。伊能忠敬の「九州東海辺沿海村順」では家数一六七、うち高目六二で、ほかに今和泉島津氏家来八二軒がある。


岩本村
いわもとむら

[現在地名]旭志村弁利べんり

姫井ひめい村の南に位置し、くら岳の裾野西端、合志こうし川左岸の平地に立地する。天正一七年(一五八九)の検地帳に田一八町三反二畝余・畠二五町二反八畝余・屋敷二町三反六畝余、分米三二八石七斗余とある。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田一九町二反八畝、畠・屋敷二六町九反一畝、分米三二四石五斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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