デジタル大辞泉
「胡錦濤」の意味・読み・例文・類語
こ‐きんとう〔‐キンタウ〕【胡錦濤】
[1942~ ]中国の政治家。安徽省出身。清華大学卒業。1964年中国共産党入党。1992年政治局常務委員、1998年国家副主席、2002年党総書記に就任。2003年国家主席に選出され、2005年3月国家中央軍事委員会主席に就任、党・国家・軍の三権を掌握。2012年、党総書記・中央軍事委員会主席を退任。後任は習近平。フー=チンタオ。
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胡錦濤【こきんとう】
中国の政治家。2002年中国共産党総書記,2003年国家主席。上海生れ。1964年入党。清華大学水利工程学部卒業後,ダム建設などに従事し,1984年胡耀邦総書記に知られ共産主義青年団中央の第一書記,翌年党中央委員。1988年チベット自治区党委書記となり,翌年のチベット独立運動を鎮圧し,他方で経済開発を推進,党中央に評価されて1992年中央書記局書記,1998年国家副主席。2002年江沢民に代わって党総書記,翌年国家主席に就任,首相は温家宝。謙虚で実務を重視するタイプの政治家と評された。2008年国家主席に再任。中国首脳としては10年ぶりに訪日し,小泉政権とのあいだで途絶えていた首脳外交を復活。国内的には和諧社会をスローガンに高度経済成長のひずみ是正に取り組む姿勢を明らかにした。同年北京オリンピック開催を成功させたが,オリンピック開催準備中にチベット族への人権抑圧などに抗議する運動が世界中で展開され,また2009年7月には,新疆ウィグル自治区のウルムチで,ウィグル族と漢族の大規模な衝突が起こり,イタリアのラクイラでのサミットから急遽帰国を余儀なくされるなど,少数民族問題,人権問題をはじめ山積する国内問題の対処に追われた。さらに国際的にも,世界経済の中心を担う中国は,地球温暖化対策など地球的規模での課題への新たな取り組みが求められた。胡錦濤体制は2010年の上海万博を成功させ,世界第二位の経済力を背景に財政危機に苦しむEU諸国の支援にも乗り出し,同時に,軍備増強と国家核心利益を主張して,周辺諸国に大国としてのプレゼンスを強めている。国内的にも,2010年のノーベル平和賞問題に見られるように,言論統制を一段と強めた。任期最終年の2012年は,尖閣諸島問題で日本との緊張関係を生み出すなど外交面での課題を残しながら,胡錦濤体制が国際的・国内的にどのような政治的舵取りをして後継を有力視される習近平に引き継ぐのか,また退任後にその後影響力を確保しうるのか注目された。2012年11月の党大会で,党トップの総書記と軍トップの党中央軍事委員会主席の座を習近平に譲り,2013年3月の全国人民代表大会で,習近平が国家主席に選出され,権力委譲プロセスは終了した。胡錦濤自身が押す李克強が温家宝の後を継いで首相に就任した。胡錦濤の出身母体である共産主義青年団(共青団)幹部の出身からは,李源潮が国家副首席に就任したことが注目された。習近平体制の形成では保守派の江沢民前国家主席が依然として大きな影響力を行使したとされるが,この人事は,胡錦濤が4年半後の次回党大会で共青団の影響力を挽回するための布石と見られている。
→関連項目中華人民共和国|中国国民党|薄熙來|南スーダン
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胡錦濤
こきんとう / フーチンタオ
(1942― )
中国の政治家。安徽(あんき)省績渓(せきけい)県出身。1964年中国共産党入党。北京(ペキン)清華大学卒業。1984年共産主義青年団第一書記。1985年党中央委員。同年貴州(きしゅう)省党委員会書記(1988年まで)。1988年チベット自治区党委書記(1992年まで)。1992年党中央政治局常務委員。1997年同局常務委員第4位。1998年国家副主席。朱鎔基(しゅようき)を筆頭とする清華大学グループのテクノクラートで、胡耀邦(こようほう)、喬石(きょうせき)(1924―2015)、宋平(そうへい)(1917― )ら党内有力者の後押しがあり、スピード出世したという。「第四世代」に属し、江沢民(こうたくみん)の後継者の有力な一人と目された。2002年11月党総書記に就任。2003年3月の第10期全国人民代表大会(全人代)第1回会議で国家主席に選出された。2004年9月党の中央軍事委員会主席、2005年3月国家中央軍事委員会主席に就任、これにより党・国家・軍の三権を掌握した。2007年10月党総書記、2008年3月国家主席に再任した。2012年11月党総書記および党中央軍事委員会主席を退任、2013年3月国家主席および国家中央軍事委員会主席を退任し、完全引退した。
[渋谷 司 2019年4月16日]
『ウィリー・ラム著、相馬勝訳『新皇帝・胡錦濤の正体――中国第4世代指導者の素顔と野心』(2002・小学館)』▽『辻康吾監修、祁英力著、おうちすえたけ編訳『胡錦濤と現代中国』(2002・勉誠出版)』▽『NHK「中国」プロジェクト編著『21世紀中国はどう変貌するか』(2003・日本放送出版協会)』▽『許介鱗・村田忠禧編『現代中国治国論――蒋介石から胡錦濤まで』(2004・勉誠出版)』▽『矢吹晋著『中国の権力システム――ポスト江沢民のパワーゲーム』(平凡社新書)』
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胡 錦濤
コ・キントウ
Hu Jin-tao
- 職業・肩書
- 政治家 元中国国家主席・国家中央軍事委員会主席,元中国共産党総書記・中央軍事委員会主席
- 国籍
- 中国
- 生年月日
- 1942年12月25日
- 出生地
- 上海
- 学歴
- 清華大学水利工程系〔1965年〕卒
- 経歴
- 1964年中国共産党入党。清華大学で水力発電技術を学んだ後、’68年水力発電省の技師として甘粛省に赴任。水力発電所建設に当たるとともに共産主義青年団(共青団)で活躍。’74年甘粛省建設委に転任、’80年同委副主任。’81年中央党学校入学。’82年9月党中央委員候補。10月共青団甘粛省委書記、12月北京の共青団中央委書記に抜擢された。’84年4月国際青年年中国組織委主任。同年12月〜’85年7月共青団中央委第1書記。同年7月43歳で貴州省党委書記となり、少数民族を多く抱えた貧しい辺境の省で経済、教育の振興のため精力的に活動。同年9月党中央委員、’87年11月再選。’88年3月第7期全人代貴州省代表。同年12月46歳の若さでチベット自治区党委書記に就任。’89年3月ラサ暴動を鎮圧して高い評価を得る。’92年10月党政治局常務委員、党中央書記局書記に抜擢される。’93年10月中央党学校長兼務。21世紀の中国を担う“第四世代”のリーダーと言われ、’98年3月第9期全人代で国家副主席に選任。’99年9月党中央軍事委副主席、10月国家中央軍事委副主席に任命される。2002年5月初訪米。同年11月党総書記に就任。2003年3月第10期全人代で国家主席に選任。2004年9月党中央軍事委主席。2005年3月国家中央軍事委主席。2007年10月総書記に再任される。2008年3月国家主席・国家中央軍事委主席再任。2012年11月党総書記・中央軍事委主席・政治局常務委員退任。2013年3月国家主席・国家中央軍事委主席を退任し引退。1998年4月国家副主席として来日。2008年5月国家主席として来日し、天皇陛下と会見。天皇陛下が国賓の中国国家主席と会見するのは、1998年11月の江沢民以来約10年ぶりだった。
出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」現代外国人名録2016について 情報
胡錦濤
こきんとう
Hu Jin-tao
[生]1942.12. 上海
中国の政治家。 1964年中国共産党に入党,1965年清華大学卒業。専門の水利学を生かし甘粛省水利部門などに技師として勤務。当時甘粛省党委員会書記だった宋平・元政治局常務委員に見出され,1982年中国共産主義青年団 (共青団) 甘粛省委員会書記に就任し,党活動専任に転じる。 1984年共産主義青年団中央書記局第1書記,1985年貴州省党委員会書記,1988年チベット自治区党委員会書記を歴任。 1992年の第 14回中国共産党全国代表大会 (党大会) 後に中央政治局常務委員に抜擢され,1998年第9期全国人民代表大会 (全人代) 第1回会議で国家副主席,2002年第 16回党大会後に党中央委員会総書記,2003年第 10期全人代第1回会議で国家主席に選出され,中国の党機関と国家機関のトップに就任した。 1993年以降中国共産党中央党校の校長,1999年以降中国共産党中央軍事委員会副主席を務める。
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