肥富(読み)こいどみ

精選版 日本国語大辞典 「肥富」の意味・読み・例文・類語

こいどみ【肥富】

室町前期の博多商人。「こいつみ」とも伝える。応永八年(一四〇一)、足利三代将軍義満の使者として、僧祖阿とともに明に渡り、貿易開始の交渉を行なう。翌年帰国生没年未詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「肥富」の意味・わかりやすい解説

肥富 (こいつみ)

室町時代の博多商人。生没年不詳。《善隣国宝記》によると,応永の初年に肥富が明から帰って足利義満に明と通交することの利益を説き,これにより義満は1401年(応永8)の遣明船を計画したという。肥富は同朋衆(どうぼうしゆう)の祖阿(そあ)とともに遣明使節にあげられて日明間を往来した。《善隣国宝記》の1657年(明暦3)の刊本に〈コイツミ〉とふりがながあり,長沼賢海(ながぬまけんかい)は安芸の豪族小早川氏の分族の小泉氏に比定している。
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朝日日本歴史人物事典 「肥富」の解説

肥富

生年:生没年不詳
室町時代の博多商人。応永の初年に明から帰国し,足利義満に明との通信(通交)の利を説き,これにより義満は応永8(1401)年の遣明船を計画した。その際,正使祖阿と共に副使として明に派遣され,翌年帰国した。肥富を安芸(広島県)の小早川氏の分族小泉氏に比定する見解がある。日明関係を開く契機になった人物であり,博多商人が遣明使節を務めるのは異例(以後は五山僧)である。<参考文献>小葉田淳『中世日支通交貿易史の研究』,田中健夫『中世対外関係史』,長沼賢海『日本海事史研究』

(関周一)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「肥富」の解説

肥富
こいつみ

「こいとみ」とも。生没年不詳。室町中期の博多商人。瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)の「善隣国宝記」によると,応永年間初めに中国の明から帰国,足利義満に日明両国の通信の利を説き,義満は1401年(応永8)に遣明船を計画したという。肥富は副使として,正使祖阿(そあ)と入明。翌年,明使天倫道彝(てんりんどうい)と一庵一如(いちあんいちにょ)を伴い帰国。義満は日本国王に封じられ,日明関係が成立した。以後の遣明使節は五山僧が勤めたが,博多商人が任じられたのは異例。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「肥富」の意味・わかりやすい解説

肥富
こいとみ

室町時代の筑紫商客 (→博多商人 ) 。応永初年,明から帰国し,3代将軍足利義満に大いに日明通交の利を説き,応永8 (1401) 年,最初の遣明船にはみずから副使として渡航,国交を開く。肥富氏は瀬戸内海安芸国小早川氏の一族小泉氏 (同国沼田荘小泉村地頭) ともいわれる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「肥富」の解説

肥富 こいつみ

?-? 室町時代の商人。
博多にすむ。安芸(あき)(広島県)小早川氏の一族小泉氏といわれる。将軍足利義満に対明(みん)貿易の利をとき,応永8年(1401)祖阿とともに最初の遣明使として明(中国)におもむき,のちの勘合貿易のきっかけをつくった。「こいとみ」ともよむ。

肥富 こいとみ

こいつみ

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の肥富の言及

【博多商人】より

…中国,朝鮮,琉球,東南アジア等,海外への窓口であった博多には商人群が形成され,しだいに外国との貿易に従事して,東アジアを舞台に活躍した。日明貿易においては,足利義満に明への通交を勧め,みずからも初回の遣明副使となった肥富(こいつみ)は博多商人とされているし,大内氏の勘合貿易を担ったのは,奥堂氏,神屋氏,河上氏,小田氏といった博多商人であった。神屋寿禎は大陸から先進的な銀の精錬技術を輸入し,石見銀山の開発に利用したといわれている。…

※「肥富」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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