改訂新版 世界大百科事典 「博多商人」の意味・わかりやすい解説
博多商人 (はかたしょうにん)
中世以降,国内外で活躍した博多の商人。中国,朝鮮,琉球,東南アジア等,海外への窓口であった博多には商人群が形成され,しだいに外国との貿易に従事して,東アジアを舞台に活躍した。日明貿易においては,足利義満に明への通交を勧め,みずからも初回の遣明副使となった肥富(こいつみ)は博多商人とされているし,大内氏の勘合貿易を担ったのは,奥堂氏,神屋氏,河上氏,小田氏といった博多商人であった。神屋寿禎は大陸から先進的な銀の精錬技術を輸入し,石見銀山の開発に利用したといわれている。また朝鮮貿易においても,1419年(応永26)の応永の外寇の直後,真相究明のため室町幕府から副使として朝鮮に派遣された平方吉久,日朝・日明貿易に活躍し〈富商石城府代官〉と称された宗金とその一族,博多を本拠として朝鮮と琉球の間で活躍した道安など,多数の博多商人が活躍した。戦国期に博多は自治都市化するが,それを担ったのが博多の有力商人であったと考えられる。戦国末から近世初頭にかけて豪商が活躍したが,博多の島井宗室,神屋宗湛はその代表的存在であった。宗室は博多,対馬,朝鮮の間で貿易を行い,大友氏と深い関係を持った。のちに堺商人を介して上方とも交渉を持ち,豊臣秀吉の信任を得た。宗湛は1587年(天正15)秀吉の茶会に招かれ,秀吉の信任を得たのち,同年6月の博多町割および城下町名島の建設に宗室とともに関与した。朝鮮出兵が始まると直轄都市博多は兵站基地となり,宗室,宗湛をはじめとする博多商人は物資の調達,輸送に尽力した。しかし,朝鮮出兵が結局失敗に終わり,対外交渉の窓口が平戸さらには長崎へ移り,鎖国が完成すると,博多の豪商たちの役割も終わった。すなわち,博多が国際都市から福岡藩内の一商業都市に性格変化したことに伴い,国際的に活躍した博多商人たちも,福岡藩内の城下町商人へと転換を余儀なくされた。
→博多
執筆者:佐伯 弘次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報