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小早川氏 こばやかわうじ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

小早川氏
こばやかわうじ

中世,安芸国 (広島県) の豪族。鎌倉時代初期,土肥遠平小早川氏を称し,安芸国沼田荘地頭に補されて以来,この地方に勢力をふるった。秀秋 (→小早川秀秋 ) に嗣子なく慶長7 (1602) 年断絶したが,明治になって再興,男爵に列した。

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百科事典マイペディアの解説

小早川氏【こばやかわうじ】

安芸(あき)国の中世豪族。相模(さがみ)国早川荘土肥(どひ)氏の出身。鎌倉初期,安芸沼田(ぬた)荘地頭職を得て本拠を移し,竹原小早川氏・椋梨(むくなし)小早川氏など多くの庶子家を分出した。
→関連項目弓削島荘

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世界大百科事典 第2版の解説

こばやかわうじ【小早川氏】

中世から近世初期に至る安芸の豪族。相模早川荘土肥郷を本拠とする土肥氏から出,土肥実平の子遠平のとき小早川氏を称した。小早川の家名も地名に由来する。鎌倉初期,遠平が平氏追討の功によって安芸沼田(ぬた)荘地頭職に補され,その孫茂平のとき承久の乱における戦功によって都宇竹原荘地頭職を併せた。茂平のあと沼田・竹原の2家に分かれ,それぞれ支族を分出しながら勢力を拡大していったが,南北朝期に入ると瀬戸内海島嶼部に発展し,海路をおさえて活発な商業活動をおこなうと同時に,さらに海外貿易にも参加した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

小早川氏
こばやかわうじ

中世の安芸国(あきのくに)の武士団。祖は相模国(さがみのくに)土肥(どい)郷(神奈川県湯河原(ゆがわら)一帯)を本貫とする土肥実平(さねひら)。名字は土肥氏の所領早河荘(はやかわのしょう)(小田原市)による。実平は1184年(元暦1)備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・備後(びんご)惣追捕使(そうついぶし)(後の守護)に任じられ、その子遠平(とおひら)は「安直(あじか)」・沼田(ぬた)本荘・新荘を勲功の賞として獲得。しかしその子惟平(これひら)が和田義盛(わだよしもり)にくみして誅(ちゅう)されたため、平賀(ひらが)氏から迎えた養子景平(かげひら)を中心に本拠を安芸に移し在地領主として成長した。承久(じょうきゅう)の乱(1221)後、都宇(つう)竹原荘(たけはらのしょう)を得た茂平(しげひら)は、嫡子雅平(まさひら)に沼田本荘(沼田小早川家)、四男政景(まさかげ)に竹原荘(竹原小早川家)を与えて2家を分立させ、さらに椋梨(むくなし)氏、小田(おだ)氏を分出させた。庶子家は一個の独立した一族結合(惣領制)を展開、竹原小早川家はその代表例で、嫡子単独相続を鎌倉期から行い、惣領家と同格の地位を築き、南北朝内乱、応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱(1467~77)などを通じて対立を続けた。一方惣領家は将軍権力を背景にもつ惣領職をてことして椋梨氏以下の庶子家を家臣団として従属させる体制を志向、庶子家を支配下に組み入れ、非血縁の家臣団とともに配下に収めて、安芸国人衆(こくじんしゅう)の一員として在地に強力な領主制を確立した。
 また惣領家は荘内の商品流通を掌握し、瀬戸内海島嶼(とうしょ)に拠(よ)る海賊衆も統轄し、中国との貿易も行っている。とくに沼田市(いち)は鎌倉末期に現れ、小早川氏は1340年(興国1・暦応3)に「市場禁制」を出し、家臣団と商人との分離(兵商分離)を令している。1544年(天文13)毛利元就(もうりもとなり)の三男隆景(たかかげ)が竹原家の養子となり、続いて沼田家をもあわせた。戦国期には吉川(きっかわ)氏とともに毛利氏の重臣となり活躍、「毛利の両川(りょうせん)」といわれた。隆景は秀吉の五大老の一人で、智将として聞こえ、信も厚かったが子がなく、1594年秀吉の猶子(ゆうし)秀秋(ひであき)を迎えて嗣子(しし)とした。しかし秀秋にも嗣子がなく、1602年(慶長7)断絶。1879年(明治12)に至り勅により毛利三郎に家督を継がせて再興。男爵となる。[田端泰子]

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世界大百科事典内の小早川氏の言及

【安芸国】より

…承久の乱(1221)にあたり,宗孝親をはじめ厳島神主佐伯氏,葉山氏などは京方に味方したが,乱後孝親の所領の多くが守護に還補された武田氏に引き継がれた。ほかに新補地頭として確かめうるものに,大朝本荘の吉川氏,三入荘の熊谷氏,安芸町村の平賀氏,都宇竹原荘の小早川氏,八木村の香川氏,温科村の金子氏などがある。厳島神主職も佐伯氏から藤原親実に移った。…

【楽音寺】より

…しかし当寺が藤原姓沼田氏代々の氏寺として平安時代に草創されたことはまちがいない。沼田荘の開発領主で下司をつとめた沼田氏が平氏とともに滅んだあと,地頭として入ってきた小早川氏は当寺をみずからの氏寺とし,所領の寄進などを重ねている。また当寺は沼田地方の中心的神社である一宮の管理にもあたっている。…

【水軍】より

…同じく熊野海賊出身の堀内氏善(紀伊新宮)や杉若氏宗(紀伊田辺)も大名化している。村上水軍(海賊)を構成する能島氏,来島(くるしま)氏,因島氏らは古くから瀬戸内海の交通を支配していたが,同じく瀬戸内の海賊衆である乃美氏,小泉氏,生口氏らは小早川氏の一族であったことから,村上海賊と毛利,小早川氏との間に盟約関係が結ばれるようになる。北九州の海賊衆である松浦党(まつらとう)の場合も,中世末期には平戸松浦氏,宇久五島氏らによって統合がすすめられるなかで天下統一を迎えた。…

【竹原荘】より

…しかし承久の乱で同荘公文は京方に味方して荘を追われ,沼田荘地頭小早川茂平が都宇・竹原荘地頭に任ぜられた。のち茂平の子政景が同荘地頭職をつぎ竹原小早川氏の祖となった。竹原小早川氏の本拠は木村城であった。…

【沼田荘】より

…やがて備前・備中・備後3ヵ国の惣追捕使(守護)であった土肥実平およびその子の遠平が地頭として入部してきた。その後その子孫である小早川氏が地頭職を相伝領掌するが,同荘における小早川氏の活動が明らかとなるのは遠平の孫の茂平からである。 沼田荘の中央にそびえる高山城に拠った小早川氏は,中世を通じて同荘の実質的支配を行った。…

【礼銭】より

…朝廷,幕府などの官職,役職への補任や継目安堵(つぎめあんど)(将軍などの代替りに際して,家臣らが前代同様に所領を安堵してもらう),課役免除などの礼として出される場合が多く,公私混同の結果として賄賂が公然と利権化して行われたものともいえる。例えば継目安堵の判物下付の礼銭でいえば,小早川氏は,1487年(長享1)継目安堵の御礼に上洛するに際し,庶子家や家臣に分担をさせ,土倉(どそう)に質入れを行って,400貫文弱を調達,上洛費用と礼銭分を調えている(《小早川家文書》)。応仁・文明の乱で,西軍の大内政弘の帰降に際しては,将軍御台日野富子に対して種々の名目で340貫文の礼物が進上されている。…

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