日本歴史地名大系 「万町」の解説
万町
あらまち
万町
よろずまち
万町
よろずまち
万町
よろずちよう
万町
よろずまち
万町
よろずまち
万町
よろつちよう
「永代日記」承応三年(一六五四)一一月二六日条の大工殺害事件の記事に町名がみえる。町の成立は戦国時代と思われる。貞享二年(一六八五)の小田原町明細書上(県史九)によれば、宿場町として本人足役一一人半を負担、別に魚座役一〇があり、また海士方二軒があったが古新宿町へ移住している。藩主帰城の際に藩御用町人の出迎場であった(宝暦九年「宿方古記写」県史五)。「永代日記」には、延宝二年(一六七四)町人市郎左衛門倅野右衛門が江戸鉄屋の売掛金滞納で江戸町奉行所に訴えられたこと、天和三年(一六八三)大工喜三郎宅に宿泊した細川家足軽の乱心傷害事件が記されている。
万町
よろずまち
万町
よろずちよう
万町
よろずまち
万町
よろずまち
本町一丁目と二丁目の間を西に通じる横町の両側町。南は
同略図には、万町東詰の本来本町二丁目西側をも「万町市場」と記す。この町が市をなしたのは慶長年中(一五九六―一六一五)と伝え、「紀伊名所図会」は万町の菜蔬市として「本町一丁目・大工町・鍛冶屋町・駿河町・福町、すべて五町に亘りて市をなせり、春は若菜の初市より、冬は牛蒡の仕舞市まで、四季をりをりの青物たゆる時なく、殊に余国にこえて風味のよきのみならず、其ものを産すること最早く常に景物を出せること、おのづから南国暖和の気のしからしむるところなり、中にも人をしておどろかしむるものは、日高郡には冬のうちよりさや豆を出し、在田郡には夏も蜜柑を蓄へて不時のこのみに闕くるものなし」と記す。
万町
よろずまち
万町
よろずちよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報