万町(読み)あらまち

日本歴史地名大系 「万町」の解説

万町
あらまち

[現在地名]能代市よろず

南はかん町、西はおお町、北は砂地を挟んで米代川。宝永元年(一七〇四)の地震を契機に野代は能代と改められたが、その時「荒町の名も聞よからじとて、万町とぞ熊谷茶右衛門といふが附たる」(雪の道奥雪の出羽路)となった。万町はこれによると「よろずまち」と読むが、一般には「あらまち」とよばれた。享保一三年(一七二八)能代町絵図(能代市役所蔵)に「万町」とあり、「代邑聞見録」は「建年不知」であるが、おそらく弘治年間(一五五五―五八)としている。


万町
よろずまち

[現在地名]津和野町後田うしろだ

本町ほんまち通の東側の南北道沿いの両側町。南は殿との町とを限る大溝および道に接し、北は風呂屋町ふろやちよう通に至る。この間今市いまいち通・魚町うおちよう通と交差し、かみノ町・中ノ町・下ノ町に分れ、上ノ町は家中屋敷町、中ノ町・下ノ町は職人が多く居住する町人町であった。元禄期城下侍屋敷等絵図(津和野町郷土館蔵)では上ノ町の南東角に町奉行所があり、周辺に奉行所勤務とみられる家臣屋敷が並ぶ。


万町
よろずまち

[現在地名]上野市万町

徳居とくい町の南、木興きこ池に至る一帯の地域。町の大半の地域は上野城代家老の下屋敷で、寛永一七年(一六四〇)までは藤堂出雲家、以後は明治まで藤堂采女家(本姓保田)の下屋敷。東北の一部に「かや町」と記されて、雑業を兼ねる農人地があった。延宝(一六七三―八一)頃の戸数三一(統集懐録)はこれらの農人の軒数である。采女屋敷にはかなり大きい池があり、南の木興池に通じていた。藩主越国の際はしばしば采女屋敷を訪れ、川漁を楽しんだ。


万町
よろずちよう

[現在地名]中央区日本橋一丁目

元四日市もとよつかいち町の南にある。とおり一丁目北から東の本材木ほんざいもく町一丁目へ抜ける街路に沿う両側町。東は青物あおもの町、南は通一丁目新道。青物町との間、日本橋通ともみじ川のほぼ中間に日本橋通に並行して日本橋川から京橋川まで南北に貫通する街路があり、東中ひがしなか通と俗称され、中通ともよばれた。また日本橋川以北神田方面を北東中きたひがしなか通とよんだのに対し、南東中通ともよんだ(江戸鹿子)。天正一八年(一五九〇)徳川氏関東入部の際、小田原の曾我小左衛門らを移住させ、小田原城下の万町を移して町立てされた(東京府志料)


万町
よろずまち

[現在地名]中央区舞鶴まいづる一丁目・天神てんじん二―三丁目大名だいみよう一丁目

西の上名島かみなじま町と東の中名島町の間にある南北に延びる横町。当町を挟んだ上名島町と中名島町、東職人ひがししよくにん町と材木ざいもく町、大名町と天神てんじんノ丁、土手どてノ丁と因幡いなば丁はいずれも防衛のために筋違いになっている(福岡博多近隣古図)。このうち大名町と天神ノ丁の筋違いは、現在も西鉄グランドホテル北東のカーブとして名残をみせる。慶長七年(一六〇二)以後、若君(黒田忠之)の鑓の柄に使用する青貝二二個を献上した褒美として、魚店の営業と万町の町名使用が許可されている(「続風土記拾遺」など)


万町
よろずまち

[現在地名]宮津市字万町

本町ほんまちの南に位置し東西に延びる町。

京極高国時代の城下絵図(沼野家蔵)は万町の地域に東から「呉服町」「かちや町」と記す。弘化二年(一八四五)城下絵図(岸和田家蔵)は東部を万町とし、西部を「鍛冶屋町」とする。永浜宇平製図慶応三年(一八六七)城下絵図(「丹後宮津志」所引)は東部のみを載せ「鍛冶屋町」とする。


万町
よろつちよう

[現在地名]小田原市はま町三丁目

古新宿こしんしく町・新宿町の西、高梨たかなし町の東、東海道沿いの通町で、南は相模湾に臨む。

「永代日記」承応三年(一六五四)一一月二六日条の大工殺害事件の記事に町名がみえる。町の成立は戦国時代と思われる。貞享二年(一六八五)の小田原町明細書上(県史九)によれば、宿場町として本人足役一一人半を負担、別に魚座役一〇があり、また海士方二軒があったが古新宿町へ移住している。藩主帰城の際に藩御用町人の出迎場であった(宝暦九年「宿方古記写」県史五)。「永代日記」には、延宝二年(一六七四)町人市郎左衛門倅野右衛門が江戸鉄屋の売掛金滞納で江戸町奉行所に訴えられたこと、天和三年(一六八三)大工喜三郎宅に宿泊した細川家足軽の乱心傷害事件が記されている。


万町
よろずまち

[現在地名]津市万町津

塔世とうせ橋よりきた町までの間、伊勢参宮街道に沿う町人町。江戸初期は塔世橋はなく徒渉で、町名も古くはかや町と称した。当時は北町・釜屋かなや町が城下の北限であったが、まもなく城下に準じ、さらに城下に加えられた。寛文元年(一六六一)頃万町と改称し、南の塔世町とは小橋の架かるさくら川を境とした。伊藤又五郎日記要用抜書(津市史)に「寛延三年正月廿五日万町小橋かけ替候事」とある。


万町
よろずちよう

[現在地名]岡山市岩田町いわたちよう

西にし川の西側に東西に走る山陽道に沿って発達した両側町。東は岩田町、南と西は上出石かみいずし村、北は南方みなみがた村・伊福いふく村。延宝四年(一六七六)岩田町と同様に成立した町で(→岩田町、南北四五間(道五間)を与えられ、新しく移された住民は移転料として家下一坪につき銀六匁ずつを与えられた(吉備温故秘録)。翌五年当町から町奉行へ、町内は空貸屋ばかりで山陽道入口であるのに見苦しく、商売でもあれば借屋人もできるからと牛のへらさき座・竹籠いかき類の座の免許を嘆願し、許可されている。しかしこの町座は貞享元年(一六八四)座元の当町のほか他町でも望みしだい売買が許可され、事実上消滅した(市政提要)


万町
よろずまち

[現在地名]島原市万町

さくら町の東に位置する。大手おおて川よりほり町までの横町で、町名は万商いの町であったことに由来するという。元禄八年(一六九五)見世物・反物・香具師・瀬戸物屋など一一軒の店棚飾が行われ、和泉屋などの茶屋二軒があった。宝永四年(一七〇七)万町振興のために有馬屋・松屋・米屋・伊勢屋・薬屋・三会屋・菓子屋・帯屋・筑後屋らが相撲・芝居・独楽うち・操り芝居などの興行を新町別当を通じて町奉行に出願している(島原の歴史藩制編)


万町
よろずまち

[現在地名]和歌山市万町

本町一丁目と二丁目の間を西に通じる横町の両側町。南は駿河するが町、西は西之店にしのたなに続く。文政一三年(一八三〇)の丁名増改時略図(田中家蔵)によれば東西は駿河町と同じく六五間余、南北は各一七間弱。

同略図には、万町東詰の本来本町二丁目西側をも「万町市場」と記す。この町が市をなしたのは慶長年中(一五九六―一六一五)と伝え、「紀伊名所図会」は万町の菜蔬市として「本町一丁目・大工町・鍛冶屋町・駿河町・福町、すべて五町に亘りて市をなせり、春は若菜の初市より、冬は牛蒡の仕舞市まで、四季をりをりの青物たゆる時なく、殊に余国にこえて風味のよきのみならず、其ものを産すること最早く常に景物を出せること、おのづから南国暖和の気のしからしむるところなり、中にも人をしておどろかしむるものは、日高郡には冬のうちよりさや豆を出し、在田郡には夏も蜜柑を蓄へて不時のこのみに闕くるものなし」と記す。


万町
よろずまち

[現在地名]福江市江川町えがわまち

福江城の北西にある。天明九年(一七八九)の巡見使答書領内調書(青方文書)に城下町数として万町・おく町クマチなどの五ヵ町が記される。文化一〇年(一八一三)六月伊能忠敬の一行は久賀ひさか島から福江陣屋町に到着、本陣は客館で、万町の枝町の風呂屋ふろや町・祇園ぎおん町・奥町などを測量した(伊能忠敬測量日記)


万町
よろずちよう

[現在地名]新発田市大栄だいえい町一丁目・同七丁目

新町の一つで、立売たちうり町西端から鉤の手に北上する道に沿う町で、西流する新発田川を渡ると本町のかみ町に続く。立売町と合せ「両町」と称され、また立売町を「立町」というのに対し、「横町」とも記される(蕉鹿年代記)。道幅は他の新町が四間余であるのに対し、当町と立売町は五間と広い(延享元年「新発田町家図」新発田市立図書館蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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