改訂新版 世界大百科事典 「自動車競走」の意味・わかりやすい解説
自動車競走 (じどうしゃきょうそう)
乗用車(四輪車)のエンジンやボディを改造して競走力を高め,スピードとテクニックを争う競技をいうが,ドライバーの世界一を決めるフォーミュラワン(F1)のように,競走するためだけに特別のエンジン,ボディが設計,製造される特殊なレーシングマシンもある。
競技の種類
競技の種類にはレース,ラリー,スピード行事などがある。
(1)レース 同一コース上において,2台以上の車が同時に発進し,速度が順位判定の決定的要素となる競技。参加できる車両の種類によって区別すると,以下のようなものがある。(a)グランプリ(GP)レース エンジン排気量3000㏄以下(ターボ搭載の場合は1500㏄以下),重量540kg以上などの規格をもつF1レーシングカーによるもので,各種レース中の最高峰といえる。レースごとに1位9点,2位6点,3位4点,以下6位1点となっており,年間の得点を合計してドライバーの世界チャンピオンを決める。ほかに地域選手権を争うF2,F3レースや,レースの主催者がエンジン排気量を決めるフォーミュラリブレ(自由フォーミュラ)がある。後者の代表が毎年5月30日,アメリカのインディアナポリスで行われる〈インディアナポリス500マイルレース(インディ500)〉(1911創設)である。(b)スポーツカーレース GPレースがドライバーの世界一を決めるのに対し,メーカーのチャンピオンを決定するレース。市販を前提にした2座席のスポーツカーにより,1000km以上,または6時間以上の長距離レースを世界各地で行い,各レースの得点合計でチャンピオンメーカーを決める。1982年からはドライバーのタイトルもかけられるようになった。毎年6月フランスのル・マンで行われる〈ル・マン24時間耐久レース〉(1923創設)が代表的なものである。(c)ツーリングカーレース 一般乗用車(量産車)によるレースで,車の規格,構造については厳格な規定がある。
(2)ラリー 主催者によって決められたルート,ポイント間の距離,走行速度に従って走り,標準タイムとの誤差が少ないものを勝ちとする。ヨーロッパ9都市をスタートしてモナコのモンテ・カルロに集合し,さらに困難なルートに挑戦する〈モンテ・カルロ・ラリー〉(1911創設)や,アフリカの過酷な自然条件の下で行われた〈サファリ・ラリー〉(1953創設)などがある。
(3)スピード行事 競技車が個別に走行し,所定の距離についての所要時間を計時比較して順位を判定するもので,一般的に行われているのは次のようなものである。(a)ヒルクライム 登坂競技で,カーブや急勾配などを含むコースで走行時間を競う。(b)スラローム(ジムカーナ) 駐車場や飛行場にカーブの多い短距離コースを設け,一般実用車で走行時間を競う。(c)ドラッグレース 静止状態から直線4分の1マイル(402.33m)の走行時間を争うスタートダッシュ競走で,制動にはブレーキとパラシュートを併用する。(d)タイムトライアル 所定のコースを最短時間で走り,個別のタイムを比較する。その他に各種の記録挑戦会がある。国際自動車連盟の規定に基づくスピード記録,一定距離の走行時間記録,一定時間の走行距離記録などがあるが,最も関心をもたれるのが排気量無制限車によるスピード記録である。2kmの直線コースを往復走行し,平均速度を算出するが,これまでの公認記録は1970年,ロケットエンジン装備車でアメリカのG.キャベリッチがつくった時速1001.446kmである。
歴史
世界で初めてのレースは,内燃機関つき自動車が発明された1885年から2年たった87年に,フランスのパリ~ベルサイユ間30kmのコースで行われたものとされるが,これは自動車の耐久性や実用性を一般にアピールするためのデモンストレーション走行といったものであった。記録されている最初の本格的レースは,95年にパリ~ボルドー間で行われた。こうしたレースが人間の闘争心,虚栄心,冒険心を大いに満足させ,その後ますますエスカレートして,ついにはヨーロッパの都市と都市とを結び互いに先陣争いをする〈インターシティレース〉に発展した。当時は特定のサーキット(レースを行うためのコース)や安全基準といったものがなく,無統制なレースであったため,ドライバーはもちろん,通行人や見物人までもが死傷するという事故が続出し,ついにこのレースは全面禁止になった。
しかし,人間のあくなき探究心は,〈より速く,より安全な車〉を求めてやまず,1900年,《ニューヨーク・ヘラルド》紙のゴードン・ベネット社主が主催する国際対抗レース〈ゴードン・ベネット・チャレンジ・カップ〉が誕生した。この時点で専用コースが設けられたり,それまでの実用車から,走るためのレーシングマシンが製作された。それから6年後の06年,ゴードン・ベネット杯の各国3台という参加制限ルールに反対したフランス自動車クラブ(略称,ACF)が独自のルールでレースを組織して,ル・マンで行ったのが世界初のGPレースである。ACFは,エンジンや車体重量に制限を設け,なおかつ技術開発によってマシンの向上をはかり,今日のF1レースの基本を確立させた。
この時期はまだ自動車そのものがぜいたく品であったため,レースも貴族のポケットマネーで行われていた。しかし,第1次世界大戦期には,マシン開発の技術が航空機用のパワーユニットにつながることから軍需産業と結びつき,自動車産業は特権階級の支配から国家権力による支配へと変わっていく。当時,ヒトラーがベンツに,ムッソリーニがフィアットやアルファ・ロメオといった自国の自動車に肩入れし,自動車産業は大きな発展を遂げた。第2次世界大戦後の民主化傾向は,自動車レース界にも及び,46年,国際自動車連盟Fédération internationale de l'automobile(略称FIA。その前身は1904年創立の〈国際自動車公認クラブ協会〉(略称,AIACR))が組織された。ここで初めてドライバーズチャンピオンシップ(世界選手権)の制度が設置され,F1によって世界最高峰レースが行われることになったのである。
F1による第1回GPレースは,1950年にイギリスのシルバーストン・サーキットで行われた。このGPレースは,現在世界各地で年間15戦前後行われており,イギリスGP,フランスGP,オランダGPといったように開催国名あるいは開催都市名がレースに冠せられている。これまでの年間最多優勝は,さまざまなF1の歴代記録を塗り替えたドイツのシューマッハMichael Schumacher(1969- )で,2004年シーズンに13勝を挙げた。〈音速の貴公子〉といわれ,日本にも非常に多くのファンがいたブラジルのセナAyrton Senna(1960-94)も,88年シーズンに8勝を挙げたが,94年シーズンの途中,イタリアのイモラ・サーキットで事故死した。GP最多優勝は,常に冷静で正確無比なドライビングテクニックを誇り〈プロフェッサー〉の異名をとったフランスのプロストAlain Prost(1955- )の51勝であったが,シューマッハは2001年のベルギーGPで52勝目を挙げ,通算では91勝に達している(06年現役引退)。出場を許されるドライバーも限定される。FIA認定のグレーデッドドライバー(約25人)だが,開催国では,その国の優秀なドライバー数人が出場を認められることがあり,日本でも76,77年に静岡県の富士スピードウェイで開かれたF1GPレースには,長谷見昌弘,星野一義,高原敬武といったトップクラスのドライバーが出場した。その後,グレーデッドドライバーという呼称は改定され,FIA認定のスーパーライセンス保持者だけがF1レースに出場できることになった。日本人ドライバーでF1のシリーズ戦にフル参戦したのは中嶋悟が最初で,鈴木亜久里,片山右京,井上隆智穂,中野信治,佐藤琢磨らがこれに続いた。F1マシンは,日本のメーカーも排気量1.5リッター時代から本田技研が自社製のシャシーとエンジンでGPレースに参加し,1.5リッターのときに1回,3リッターになってからも1回優勝している。
日本の自動車競走
最初の自動車競走は1922年に東京の洲崎の埋立地で行われ,このときの参加選手が母体となって〈日本自動車競走俱楽部〉が設立され,以後35年まで何回かのレースが開催された。36年には初のレース場である〈多摩川スピードウェー〉が完成したが,第2次世界大戦によって中断した。日本の本格的な自動車レースの幕あけは,1963年の第1回日本GPである。GPの名称はF1にしか使用できないが,当時の日本の最高峰レースということで冠せられたものである。このレースは日本自動車協会(略称,JAA)が主催して三重県の鈴鹿サーキットで行われた。当時はまだ自動車レースそのものが日本で一般によく知られておらず,使用されたタイヤなどは4輪ともばらばらであったり,航空機用のものであったり,現在では想像もつかないような粗末なものだった。そして第2回GPはJAAを引き継いだ日本自動車連盟(略称,JAF)主催で開かれたが,メーカー同士の宣伝の材料としてレースが利用されたこともあり,一時中断した。この間JAFはFIAに加盟し,全国統轄組織として,日本における自動車レースの開催権を有する唯一の団体となった。
一方,中断されたGPレースは,1年後に再開され,第3回大会は富士スピードウェイで行われた。このころから数年間は各メーカーの協力もあってレースは一大発展し,プロトタイプ(原型)マシンのプリンスR380が登場したのを契機に,ニッサンR381,382,トヨタ7などの強力マシンが続々と誕生し,最盛期を迎えた。しかし70年に自動車排気ガス公害が社会問題となり,各メーカーとも〈公害対策〉を理由にレースから手を引き,GPレースはそれまでの大排気量のプロトタイプ,スポーツタイプのマシンから統一規格のフォーミュラマシンに変わった。ドライバーも各メーカー直属の契約レーサーから,メーカー直系のディーラーが所有するスポーツクラブの所属となったり,新たに誕生したプライベートチームのメンバーとしてレースに参加するようになった。そしてこのフォーミュラマシンによるGPレースの形式を引き継いだのが,現在のJAF鈴鹿F2シリーズ選手権である。また,排気量2000㏄,オープン2座席のスポーツタイプマシンによるダイナミックなレースを復活させたのが富士グラン・チャンピオン(GC)・シリーズである。
現在,日本国内での最高峰のレースは,3000㏄のフォーミュラカーで争われる〈フォーミュラ・ニッポン〉シリーズ。このほか,ツーリングカーやスポーツカーによるスプリント,耐久レースなども開催されている。さらに1996年からアメリカ製の大排気量車によるストックカーレースが鈴鹿サーキットで始まり,新設の〈ツインリンクもてぎ〉でも,CARTシリーズのほかストックカーも行われる。しかし,何といってもF1の日本GPが今のところ一番人気で,鈴鹿サーキットには毎年10万人を超す観客が集まる。F1レースは1976,77年に富士スピードウェイで行われた後,87年に鈴鹿サーキットで開かれるまで10年ほどの空白があった。この87年は,久し振りの日本での開催,フジテレビによるシリーズ全戦中継,中嶋悟のシリーズ・フル参戦といった要素が加わり,ホンダ・エンジンの強さもあってF1人気が一気に沸騰,観戦チケットの抽選はがきを数百枚出しても当選しないファンもいて,〈プラチナ・チケット〉といわれた。その人気も,ホンダの撤退,セナの事故死,プロストの引退,日本人ドライバーの今ひとつの成績などから,一時に比べるとややかげりが見えはじめている。なお,日本人F1ドライバーの中でのシリーズ最高位は2004年佐藤琢磨の8位。レース単独では1990年の鈴鹿サーキットでの日本GPで鈴木亜久里が3位,2004年のアメリカGPで佐藤琢磨が3位に入っている。
執筆者:石田 寿喜
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報