臼井村(読み)うすいむら

日本歴史地名大系 「臼井村」の解説

臼井村
うすいむら

[現在地名]佐倉市臼井・新臼井田しんうすいだ江原台えばらだい一―二丁目・王子台おうじだい一―六丁目・稲荷台いなりだい一―四丁目・南臼井台みなみうすいだい八幡台はちまんだい一―三丁目

印旛いんば沼の南岸に位置し、東は江原えばら新田村。成田道(佐倉道)が通り、その宿駅であった。同街道を東に向かうと佐倉城下を経て酒々井しゆすい宿(現酒々井町)まで二里八町、西方の大和田おおわだ宿(現八千代市)まで二里(「成田名所図会」など)。中世には当村を遺称地とする臼井庄が成立していたほか、広域地名としての臼井も史料にみえる。近世初頭は葛飾かつしか郡のうちとされたが(「寛文朱印留」など)、元禄一一年(一六九八)印旛郡に編入されたという(設楽家文書)。また当村は臼井田うすいた町・臼井台町も含んでいたが、寛文四年(一六六四)以前に臼井田町が分村し(寛文朱印留)、寛保二年(一七四二)以前に臼井台町を分村した。

臼井村
うすいむら

[現在地名]筑波町臼井

筑波山南麓裾部に所在。筑波山より流出する六所ろくしよ沢・立野たての沢・たちばな川・男女みなの(水無川)など豊かな沢水に恵まれた地域。村内は東坪ひがしつぼ・中坪・西坪・石田寺いしだてら夫内ぶうちつじ赤塚あかつか清水内しみずうち・六所・立野に分れていた(新編常陸国誌)が、現在は西から臼井・立野・六所の三居住区となっている。臼井地区には円墳三基を残す臼井古墳群、円墳六基を残すひうちいけ古墳群、縄文土器の出土した臼井遺跡、立野地区には立野遺跡などがあり、臼井・立野の間を南北の堤状に走る十三塚じゆうさんつか遺跡は古代の水城を思わせ、古くから人の集住が進んでいた。

臼井村
うすいむら

[現在地名]大牟田市臼井町・臼井新町うすいしんまち一―二丁目・飯田町いいだまち笹原町ささはらまち一―三丁目・野添町のぞえまち萩尾町はぎおまち一―二丁目・東萩尾町ひがしはぎおまち馬渡町まわたりまち米生町よねおまち二丁目・下池町しもいけまち神田町かんだまち

一部いちぶ村の南、諏訪すわ川右岸にあり、西は馬籠まごめ村・藤田ふじた村、南は肥後国。文禄四年(一五九五)の高橋統増(立花直次)に宛てられた知行方目録(三池立花家文書)には「うす井・一武」とあり、高九五九石余。

臼井村
うすいむら

[現在地名]岬町長者ちようじや三門みかど井沢いざわなど

現岬町の東部、夷隅川右岸に位置する。近世前期の村高帳や正保国絵図元禄郷帳などには臼井村・臼井郷(村)として井沢(伊沢)村・三門村小福原こぶくはら村および寛文期(一六六一―七三)に市町として立てられた長者町を合せて高付されているが、江戸中期以降これら三村一町は行政的には独立性が強くなり、天保郷帳では三村は古くは臼井村のうちという注記つきでそれぞれ独自に高付されている。ただし長者町はみえず、臼井村・臼井郷(村)と三村一町の関係には不分明な点が残る。なお中期以降年貢負担は各村ごとであったが、幕末期においても臼井村として一括して納入しており(金綱家文書)、一村としてのまとまりをもつ側面もあった。

臼井村
うすいむら

[現在地名]白根市臼井・堀掛ほつかけ

信濃川と旧笠巻かさまき川の分岐点に位置し、旧笠巻川の対岸赤渋あかしぶ村。寛永年間(一六二四―四四)臼田勘次郎の開発と伝える。近世を通じて新発田藩領。正保国絵図は村名のみを記し、寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)に家数五七・人数三七二とある。

臼井村
うすいむら

[現在地名]荻町馬場ばば

やまくち川の南岸の標高五五〇メートル前後の林間に集落が散在する。天文二〇年(一五五一)頃の直入郷葎原土貢帳写(豊州雑誌所収豊後文章)に「旧井」とみえ、臼井のことと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報