日本大百科全書(ニッポニカ) 「芸術教育」の意味・わかりやすい解説
芸術教育
げいじゅつきょういく
あらゆる芸術の鑑賞と表現を通し、人間生活において重要な美的体験(美を意識する心の働き)を与えることによって、その人自身の精神生活の形成に大きく貢献する審美的趣味の育成を目的とする教育である。さらに芸術教育においては、人間の精神活動の基本的な要素である想像力を、芸術体験を通して正しく訓練することも重要な課題である。
[川原 浩]
外国における歴史
芸術による教育の根源は古代ギリシアの教育にみることができる。ギリシア人が生きていくカロカガティアKalokagathia(美にして善なること)の理想のもとに、美的訓練は同時に道徳訓練であるという理念に基づき、教育において芸術(とくに音楽)による美的体験が重視された。この人間の美的教化の思想は、中世の長いキリスト教時代には沈滞したが、その後16世紀に至り、美的道徳の理想を意味する「美しき魂」の思想として新しく展開された。それは、人文主義思想を背景として美的情操教育が復活するとともに、カロカガティアに由来する、人間の美的教化の思想として成立したものであった。
18世紀に入ってから、「美しき魂」を理想とするシラーの美的教育思想、つまり完全な人間性を育成するためには、美や芸術を通して人間の感性と理性の両面を陶冶(とうや)しなければならないということが提唱された。さらに進んで19世紀後期に至り、イギリスのラスキンやモリスらによって、功利主義を排して美意識を高め、実生活を美化することによって社会を改善するという審美運動が唱道された。そしてそれが糸口となり、美的な人間の育成を目ざすシラーの美的教育思想は、20世紀にかけて新しい芸術教育運動としてイギリスやドイツを中心とする欧米諸国に展開されていった。それらのなかには、教育に芸術的特性を適用して自己活動への教育を意図するもの、また美的享受や美的創作を通して創造力の陶冶を目的とするというような各種の主張がみられる。
[川原 浩]
日本での芸術教育
日本においては1872年(明治5)の学制以来、図画や唱歌などの表現教科を通して芸術教育を行うことにはなっていた。しかし1907年(明治40)の小学校令の改正によって、ようやく図画と唱歌が小学校における必修教科として位置づけられたということから考えれば、明治期における芸術教育は遅滞していたといえる。その後大正期に入ってから、19世紀後期の欧米諸国において展開された芸術教育思想が、小西重直(しげなお)や阿部重孝(しげたか)らの教育学者によって紹介された。したがってその影響も大きな力となり、児童の個性と創造性の開発を目ざしたわが国独自の芸術教育運動が、作家、詩人、作曲家、そして画家らの芸術家たちによって推進された。
なかでもその先駆的な役割を果たしたのは、作家鈴木三重吉によって創刊された新児童雑誌『赤い鳥』(1918)であった。それは、芸術性豊かな童話・童謡、また作文指導を通しての芸術教育を意図するものであり、それに伴って成田為三(ためぞう)や弘田(ひろた)竜太郎らの作曲家たちによる童謡運動が展開された。さらに北原白秋による自由詩、山本鼎(かなえ)による自由画、また片山伸(しん)による文芸教育なども、大正期に推進された顕著な芸術教育運動としてあげることができる。
第二次世界大戦後は、戦時期に忘れられていた大正期の芸術教育運動が回想され、音楽や美術などの芸術的教科を通し、芸術美の理解・感得によって、高い美的情操と豊かな人間性を養う新しい芸術教育として再出発した。そして世界的に著名な作曲家や批評家、また哲学者たちによる芸術教育についての多様な主張の影響を受けて、学校における芸術教育は大いに発展して今日に至っている。
それらの主張のなかにおいて、芸術教育は創造性豊かで他の人が表現する感情に共感できる一般人の教育を目ざす、というスイスの作曲家ダルクローズの主張、またイギリスの批評家リードの自発的な創造力を育成して個性の開発を意図する芸術教育論、さらに芸術教育は感情の教育であるというアメリカの哲学者ランガーの見解などが注目される。いまや芸術は学校における美的体験のための重要な媒体であり、また社会における芸術的体験は人間性回復のための機能を負わされている。したがって芸術教育は、現在の学校や社会においてその目的を十分に果たさなければならない。また同時に、テレビ芸術を中心とした流行に追われるマス芸術との関連において、芸術教育は新たな問題を解決しなければならない。
[川原 浩]
『H・リード著、植村鷹千代・水沢孝策訳『芸術による教育』(1959・美術出版社)』▽『H・リード著、小野修訳『芸術教育の基本原理』(1973・紀伊國屋書店)』▽『山本健吉・周郷博・村井実編『教育学全集 第9巻 芸術と情操』(1968・小学館)』