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洋画家、版画家。愛知県岡崎生まれ。幼少のころ上京、木版師桜井暁雲(ぎょううん)の内弟子となる。1906年(明治39)東京美術学校西洋画科を卒業し、翌1907年同志と『方寸』誌を創刊、これに版画や文章を発表。1912~1916年(大正5)滞仏し、モスクワ滞在ののち帰国。翌1917年日本美術院洋画部同人となり、1918年同志と日本創作版画協会を創立、また自由画教育と農民美術運動に積極的に取り組む。1922年春陽会の創立に参加、翌1923年長野県大屋に日本農民美術研究所を建設する。重厚な写実で知られ、著書『油絵の描き方』『自由画教育』などもある。代表作は油絵の『サーニャ』、木版画の『海辺の子供』『ブルトンヌ』ほか。
[小倉忠夫 2017年1月19日]
『山越脩蔵編『山本鼎の手紙』(1971・上田市教育委員会)』
大正・昭和期の洋画家,版画家
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…また,同誌は作家に子どものための作品を書く場を提供したばかりでなく,子どもにも自由な表現を促す場を提供した。そして,子どもの応募作品に対して,毎号,三重吉が綴方を,北原白秋が児童自由詩を,山本鼎(かなえ)が自由画を選び,批評し,指導することにより児童文化の領域を広めるとともに全国の子どもの表現に影響を与えた。身のまわりの現実の生活をリアルに描き出す子どもの作品に目を開かされた三重吉は,綴方をたんなる文章表現の練習としてでなく,〈人そのものを作りとゝのへる,`人間教育’の一分課〉ととらえた。…
…美術雑誌。1924年4月,洋画家山本鼎の企画のもとに北原義雄によって創刊された。平易で新鮮な誌面をめざし,絵画技法の解説や外国美術の紹介に力をそそぎ,月刊総合美術雑誌として《みづゑ》とともに戦前の美術ジャーナリズムの中心にあって日本の美術界に影響力をもった。…
…
[日本の美術教育の変遷]
日本でも,1872年(明治5)の〈学制〉で設けられた〈幾何学罫画大意〉という教科以来,図画は〈眼及手ヲ練習シテ通常ノ形体ヲ看取シ正シク之ヲ画クノ能ヲ養ヒ兼ネテ意匠ヲ練リ形体ノ美ヲ弁知セシムルヲ以テ要旨トス〉という臨画主義の方針が長く影響を与えてきた。この実用主義的な臨本模写の教育に対し,版画家・洋画家であった山本鼎(かなえ)は1919年ころより〈小児には小児の感情理性――生活があるんです。印象,感覚,認識に据へられる彼れ等の実相があるのです〉という児童観によって,〈各人の眼を心を直ちに万象へ導き,其処に自然を知り,其美を知り,其美術を知り,其趣味の深淵を会得する〉ことをめざす自由画教育運動を推進した。…
…文展を離れて闘うことになったこの青年画家たちが,京都画壇に与えた刺激は小さなものではなく,彼らの出現によって栖鳳以降にきざしていた京都画壇の近代化への脱皮をうながすことになった。 20年の第7回院展後,日本画部との感情的対立から日本美術院洋画部を解散した小杉放庵,森田恒友(つねとも)(1881‐1933),山本鼎(かなえ)(1882‐1946),倉田白羊(1881‐1938),足立源一郎(1889‐1973)らは,梅原竜三郎を加えて,22年春陽会を結成する。ほかに客員として,岸田劉生,木村荘八,中川一政,椿貞雄の草土社勢,院展系の石井鶴三,今関啓司,山崎省三,それに万鉄五郎が迎えられた。…
※「山本鼎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...
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