芹川村(読み)せりかわむら

日本歴史地名大系 「芹川村」の解説

芹川村
せりかわむら

[現在地名]鹿島町芹川

石動せきどう山麓長曾ながそ川の上流部にごり川が形成する扇状部に位置し、南は井田いだ村。東部の山地と西部の平野部に分れ、荒山あらやま峠によって越中国射水いみず小滝おたき(現富山県氷見市)と境する。峠下の芹川原山せりかわはらやま分に飛地のじや(大池ともいう)があり、村内の灌漑用水源となる。名称は人蛇伝説による(能登名跡志)。内浦街道沿いに街村を形成し、南部の勝山かつやま山麓に勝山集落がある。濁川沿いに登る荒山越は奥能登・越中を結ぶ要路であるが険阻で知られ、国境の荒山峠には能登茶屋・越中茶屋が相対し荒山明神が祀られる(「由来書上帳」船木文書)

天正八年(一五八〇)から長連竜領で、文禄二年(一五九三)の鹿島半郡高帳に村名がみえ、高三六五石余。

芹川村
せりかわむら

[現在地名]伏見区下鳥羽しもとば芹川町

北は竹田たけだ村、東は毛利治部もうりじぶ村、西・南は下鳥羽しもとば村に接する。

当地について「山州名跡志」は、「芹河地名 在城南宮南五町許」とし、「古所ニ清流アリテ三尺ノ根芹ヲ生ズ。因テ為名ト云。其水源鴨川ノ下流ニシテ、東ノ方竹田ヨリ入シト。今絶ス。民居凡ソ方一町為村名」と記す。

平安時代には遊猟地としてあり、「類聚国史」には延暦一五年(七九六)正月一一日に「遊猟于芹川野」とあるのをはじめ、同書には頻繁な遊猟の記事がみられる。

芹川村
せりかわむら

[現在地名]長岡市芹川町・雁島がんじま町・花井はない町・黒津くろづ

定河戸じようかわど川を挟んで雁島新田の南西、南西は三之宮さんのみや村。開発年代は不詳であるが、近辺では最も早く開けた。新田氏方に属した大島氏の居城が当地にあった。御館の乱後の天正八年(一五八〇)栃尾城にいた本庄秀綱攻撃の際の五月一二日、今井久家・直江重綱連署状(上杉家文書)に「芹川」奪取のことがみえる。天正村名考(温古之栞)に「せり川六十八軒」と伝える。文政一一年(一八二八)の雁島江水道橋申立書(長岡の歴史)によると、当村は天正二〇年と慶長三年(一五九八)検地帳を所蔵し、また牧野氏に属してからは寛永一二年(一六三五)・正保四年(一六四七)・慶安元年(一六四八)に各々新田検地がなされたと伝えている。

芹川村
せりかわむら

[現在地名]小矢部市芹川

宇治新うじしん村の南東、小矢部川右岸の平地に立地。北陸街道が通る。水牧みずまき川・田屋たや川が北端の石王丸いしおうまる村境で合流し芹川となる。黒石くろいし川も北西流する。年未詳の室町院領目録(八代恒治氏旧蔵文書)に新御領としてみえる越中国「荷川村」は、芹川村の誤写とみられ当地に比定される。天正一五年(一五八七)九月一二日の知行村割状(加能越古文叢)に「六百六拾六俵 利波芹河村」とみえ、前田利勝(利長)は家臣葛巻十右衛門尉ほかに当村などを与えている。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数一五、道明村組に属する。正保郷帳では高一千三八石余、田方六七町二反余・畑方二町、新田高一七一石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一千三三六石・免四ツ四歩、小物成は野役二〇目・鮭役三五匁・鮎川役四匁、猟船櫂役二〇目(うち一〇匁出来)であった(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報