勝山城跡(読み)かつやまじようあと

日本歴史地名大系 「勝山城跡」の解説

勝山城跡
かつやまじようあと

[現在地名]勝山市元町一丁目

勝山町東側の段丘上にあった勝山藩主小笠原氏の城。天正七年(一五七九)柴田勝家の一族柴田勝安は、北袋きたぶくろおよび白山麓の加賀国牛首うしくび一六ヵ村(現石川県石川郡)の一向一揆を討伐し、翌八年袋田ふくろだ村に城を築き(福井県史)村岡むろこ山の別名勝山にちなみ、勝山城と名付けた(平泉寺落ヨリ以来地頭様歳代記)。天正一一年柴田氏一族滅亡後、丹羽長秀の老臣成田弥左衛門重政が勝山城へ入った。同年五月三日付と推定される重政書状(「大野郡誌」所収)に「柴田三左衛門(勝安)知行分拙者給置、昨日二日袋田へ入城」とみえる。

慶長五年(一六〇〇)結城秀康が越前国主となり、翌年七月入国すると、勝山へは九千八四〇石をもって家臣の林長門定正を配置した(松平文庫「松平家譜」)


勝山城跡
かつやまじようあと

[現在地名]氏家町氏家 勝山

鬼怒川左岸の断崖上に位置する中世の城。宝積寺ほうしやくじ台地南東へ延びる丘陵起点にあたり、川中に突き出した台地形を呈し、西側は鬼怒川の断崖に切られ要害をなす。宇都宮氏の北方防備の最大拠点で、氏家城ともいう。城域は東西約三〇〇メートル・南北約四〇〇メートル、本丸・二の丸・三の丸からなり、現在は本丸・二の丸を残すのみ。本丸は北側断崖近くに配され、東西九〇メートル・南北七五メートルの規模をもつ。空堀・土塁で囲繞し、堀幅一五メートル、深さ一〇メートル前後、土塁は破壊が著しかったが、近年復元工事がなされている。虎口は南西隅、大手口は東側にある。本丸南側の二の丸と三の丸を画する土塁の全長は約二〇〇メートルで、土塁の中ほどに物見櫓が設けられている。


勝山城跡
かつやまじようあと

[現在地名]都留市川棚

桂川左岸に位置する戦国期から近世初頭にかけての山城跡。眼下にほぼ東側から南側にかけての桂川右岸の谷村やむらの市街地を望む。遺構はしろ山とよばれる標高五七一メートル、比高約一〇〇メートルの独立峰の全体に及んでいる。山頂には東照宮が祀られ、城跡の主要部分は城山公園として市民の憩の場となっている。築城の時期は明確ではないが、戦国期における小山田氏の居館(谷村館)の詰城と、戦国末期から江戸前期の谷村藩主の藩庁谷村城の属城としての二つの歴史的側面をもつ。享禄五年(一五三二)小山田越中守信有はそれまで現在の金井かないにおいていた居館(中津森館)を谷村に移している(勝山記)。勝山城が小山田氏の谷村館の詰城であるとの理解は従来ほとんどみられなかったが、これは「甲斐国志」が別に岩殿いわとの(現大月市)を小山田氏の要害とし、文禄三年(一五九四)浅野左衛門佐(氏重)が勝山城を築城したとの伝承が支持されてきたことによる。


勝山城跡
かつやまじようあと

[現在地名]鹿島町芹川

石動せきどう山系から北西方邑知おうち地溝帯に向けて派生する尾根筋に広く遺構群が分布し、東西両側はにごり川と大谷内おおやち川の川谷によって画されている。城域の最頂部は標高約二四〇メートルで、途中で二股に分れた尾根筋に郭群が連なり、麓部に近い一〇〇メートルラインまで遺構の存在が確認されている。遺構群はA―C三群に分れ、総計約四〇ヵ所の平坦面(郭)とそれに付随する空堀・土塁・腰郭などが分布し、連なる遺構群の総延長は一キロ以上に及ぶが、その遺存度は良好である。

永禄元年(一五五八)三月二八日の加賀の真宗大坊主の鳥越弘願寺明勝書状(安誓寺文書)に「勝山落城」とみえ、甲斐の武田晴信と結ぶ羽咋はくい郡の真宗坊主本光寺・西念寺らが牢籠の身となった。


勝山城跡
かつやまじようあと

[現在地名]阿東町大字嘉年下 市場

天文年中(一五三二―五五)石見の津和野つわの城主吉見正頼の一族波多野内蔵介滋信の居城という。「注進案」所収の「勝山合戦之記」によれば、天文二二年一二月一〇日津和野城主吉見正頼は、安芸国郡山こおりやま(現広島県高田郡吉田町)城主毛利元就と謀を通じて兵を挙げ、津和野三本松さんぼんまつの本城ならびに嘉年かねの勝山城に拠った。


勝山城跡
かつやまじようあと

[現在地名]青海町歌 落水

歌の犬戻うたのいぬもどり難所の海崖上、標高三二八・四メートルの勝山山上にある。墜水おとしみず城・落水おちりみず城ともいう。城の下を日本海に沿って北陸道が通じる。親不知おやしらずの難所を控えて、北陸道の押えとして見通しよく要害堅固で格好の地である。長い尾根伝いに四つの郭が配置され、井戸跡も確認された。道は北陸道へ二本、南の大沢おおさわ集落へ一本あり、ここが根小屋集落であった。


勝山城跡
かつやまじようあと

[現在地名]中道町上曾根

笛吹川左岸の勝山(二七一メートル)とよばれる独立丘上に構築された中世の城跡。築城の経緯は明確でないが、一五世紀末から一六世紀初めにかけて守護職を脅かす勢いのあった油川氏が拠点とした城であったと伝えられている(甲斐国志)。油川氏は武田氏の分れで、彦八郎信恵が山梨郡油川あぶらかわ(現甲府市・石和町)に拠って興した。ほとんど低湿地に近いその所領のなかにあって、当城は唯一の要害であったとみられる。城主信恵は永正五年(一五〇八)一〇月守護武田信虎との合戦に敗れ、一族ともに滅びた(一蓮寺過去帳)


勝山城跡
かつやまじようあと

[現在地名]下関市大字小野

小野おのの東部にそびえる勝山(三六一メートル)の頂上にあったと伝える。「地下上申」は勝山の城跡の地形を

<資料は省略されています>

と記し、さらに城主に関しての伝承を次のように記す。

<資料は省略されています>

この勝山城は中世には且山城とも書かれ、厚東氏・大内氏・毛利氏などの争奪の場となった。


勝山城跡
かつやまじようあと

[現在地名]広瀬町石原

標高約二五二メートルの勝山(滝山)に築かれた中世城郭。飯梨いいなし(富田川)を挟んでがつ富田とだ城の対岸に位置する。天文一二年(一五四三)富田城攻撃に際し大内義隆は勝山の背後にそびえる京羅木きようらぎ山に本陣を構え、その関連施設として使用されたが、本格的に整備されたのは永禄八年(一五六五)の毛利氏による富田城攻撃の時で、二宮俊実覚書(吉川家文書)には富田城に対する向城として人数を動員して普請がなされたことが記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「勝山城跡」の解説

かつやまじょうあと【勝山城跡】


松山城跡(まつやまじょうあと)〈愛媛県

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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