若山村
わかやまむら
[現在地名]大原町若山
新田村の北東に位置し、東部を伊南房州通往還が南北に通る。もと内野村に含まれていたが、延宝五年(一六七七)一村扱いとなる。同年の中滝領分知帳(中村家文書)に内野郷之内若山村とみえ、高六〇二石余、旗本阿部三千石領のうち。このとき当村分の高のうち三一五石余は新田村に、深堀村の高のうち二六〇石余が当村に編入された。以降同領で幕末に至る(旧高旧領取調帳)。ただし元禄郷帳には記載がなく、天保郷帳に古くは内野村の注記つきで一村としてみえる。宝永元年(一七〇四)の反別は田二九町八反余・畑二五町二反余、小物成は野銭永二七七文五分・塩四俵半(毎年納)。
若山村
わかやまむら
[現在地名]関川村若山
湯蔵山の西山裾、女川左岸の標高約八〇メートルの台地上にある。北は新保村、西は上野新村に接する。古くは女川沿いに蕨峠を経て出羽国へ抜ける道が通っていた。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「色部分加地分わか山村」とみえ、本納一五石四斗・縄高一〇七石五斗九升五合、家五軒とある。近世は初め村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領。正保国絵図では四〇石余。
若山村
わかやまむら
[現在地名]八幡浜市若山
五反田川上流の山村。東は中津川村、西は布喜川村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「若山村 茅山有、柴山有」と記される。寛文検地に際し谷村を分離した(
墅截)。宇和島藩領。
太閤検地の石高は六三二石三升で、耕地面積の比率は田六〇パーセント、畑四〇パーセントであったが、寛文検地では石高が約六パーセント減少し、田二六パーセント、畑七四パーセントの比率に大きく変化している。
若山村
わかやまむら
[現在地名]小国町若山
貝少村の北にあり、集落は荒川左岸、支流金目川合流点付近に広がる。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一九七石余、免二ツ九分、家数一一(うち役家四・肝煎二)・人数六〇、役木として漆・桑をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は中。寛文五年(一六六五)の小国目安一件では当村百姓清右衛門が連判頭となり、小国代官笹生久兵衛などの不正を糾弾、久兵衛は更迭されたが、清右衛門も処刑された(享保八年「当国覚書」沼沢文書)。「小国往来」では特産品として足駄をあげる。
若山村
わかやまむら
[現在地名]五所川原市松野木
大釈迦丘陵西側の山間、松野木川右岸に位置し、南は松野木村、北は石田坂村に接する。
貞享四年(一六八七)の検地帳に松野木村の支村若山村として田方一七町二反三畝六歩・畑方一〇町一反九畝八歩、田畑屋敷合せて二七町四反二畝一四歩、村高一七九・二六四石とあり、貼紙によれば、享保一一年(一七二六)本村となった。貞享四年中師村を若山村と改称し(長橋村誌)、元禄三年(一六九〇)には飯詰組に属し、村位は中で、家数は九であった(平山日記)。
若山村
わかやまむら
[現在地名]野津町老松 若山
花原村の北、蛇行しながら北流する臼杵川西岸にある。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には若山村と花原村など四ヵ村分が一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高三五石余。香野村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方二二石余・畑方一二石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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