茅原村(読み)ちはらむら

日本歴史地名大系 「茅原村」の解説

茅原村
ちはらむら

[現在地名]桜井市大字茅原

三輪山西麓、しば(岩田村)東方に立地する。「日本書紀」崇神天皇二年七月の「神浅茅原かむあさぢはら」伝承地(磯城郡誌)狭井さい神社付近に発源する狭井河は「古事記」神武天皇段の「狭井河」といわれている。「大和志」には「狭井かは源自三輪山遶狭井寺跡、至箸中入纏向渓」と記す。西大寺田園目録に「城上郡廿条五里卅六坪内一段字佐江田」とある佐江田は狭井田であろうか。


茅原村
ちはらむら

[現在地名]栄町茅原

蔵内くらうち村の西にあり、北は東光寺とうこうじ村、南は安代やすしろ村。石塚いしづか大原おおはらからは平安時代の須恵器土師器が出土した。近世は、はじめ新発田藩領で、慶長一〇年(一六〇五)の給知方村々高目録(新発田市史資料)では毛付二五四石余・荒一二一石九斗余。同一五年頃の給知方ほど役帳(同資料)によれば「千原村」とあり、六軒が炉役一石五升を、久蔵紺屋役を負担。正保四年(一六四七)新発田領絵図(新発田市立図書館蔵)では「御蔵入」とあり、この頃藩主蔵入地であった。明暦元年(一六五五)に新発田藩により一八町四反余(田畑不明)検地されている。


茅原村
ちはらむら

[現在地名]金沢市茅原町

たち村の南東方、浅野川上流西岸に位置する。館村との間には河北かほくなかふくろ各村などの耕地が入組む。南西上辰巳かみたつみ村。正保郷帳では南東の七曲ななまがり村と併記され、二村合せて高二二二石余、田方五町余・畑方九町七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高七〇石・免五ツ一歩で、ほかに山役一二七匁・蝋役九匁・漆役三六匁・綿役一匁の小物成があった(三箇国高物成帳)


茅原村
ちはらむら

[現在地名]御所市大字茅原

御所町東部に接続。元禄八年(一六九五)吉祥草きちじようそう寺鐘銘に「茆原郷」とある。修験道開祖役小角(役行者)誕生の地と伝え、「今昔物語集」巻一一(役優婆塞、誦持呪駈鬼神語第三)に「役優婆塞申聖人御、大和国、葛上郡、茅原村人也、俗姓賀茂、役氏也、年来、葛木山住、藤皮以着物、松葉食物四十余年、彼山中崛居給」とみえ、「続日本紀」文武天皇三年五月二四日条に「初小角住於葛木山、以呪術称」とあり、「扶桑略記」にも大和国葛上郡茅原郷の人とある。

保安三年(一一二二)の大方広仏華厳経(巻一九)奥書に「結縁施主茅原村住人僧厳真女橘姉子敬奉書写了」とあり、文治二年(一一八六)の勧学院政所下文(春日神社文書)には「葛上郡限東小山、限西葛木峯、限南新井郷、限北興田郷即四至内役行者誕生所也」とみえ、新井あらい郷は当村であり、中世、新井庄であった。


茅原村
ちわらむら

[現在地名]豊田市豊松とよまつ町 茅原

ともえ川の支流たき川の南に位置し、大田だいた―茅原―松平を結ぶ石亀いしがめ道が通っていた。近世初めは幕府領、寛永四年(一六二七)奥殿藩領となり明治に至る。慶長九年(一六〇四)八月一九日には、奉行辰巳藤右衛門による検地が実施された(松平町誌)。宝暦一二年(一七六二)の道切山論一件日記控(大津区有)によると、大津おおつ村との間で道切の境をめぐって争論が起きている。


茅原村
ちわらむら

[現在地名]鶴岡市茅原・宝田たからだ一―二丁目

道形どうがた村の北、青竜寺川東岸にある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ、高二八九石余。寛永元年庄内高辻帳では高三八七石余。正保郷帳では田三六四石余・畑二三石余、新田がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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