草場村(読み)くさばむら

日本歴史地名大系 「草場村」の解説

草場村
くさばむら

[現在地名]三潴町草場

原田はるだ村の西、大きく湾曲する筑後川の左岸に沿う。西は内野うちの(現城島町)、南は北清松きたきよまつ村。筑後川に草場渡がある。正保四年(一六四七)の大小道之帳によると上野うえの(現久留米市)から同渡まで一里四町二〇間で、肥前国坂口さかぐち(現佐賀県三根町)とを結ぶ。草場舟渡は幅二一〇間・深さ二間、指塩(満潮時)には深さ三間。中世は三潴庄のうちで、鎌倉期には夜明よあけ(現久留米市)のうちとしてみえる。乾元二年(一三〇三)二月二二日の沙弥宗戒譲状案(近藤文書/鎌倉遺文二八)によると「ミぬまのしやうやけのうち、くさはセうら」(三潴庄夜明内草場庄等)の在家分一〇ヵ所が姪鬼御前に譲られている。応永二五年(一四一八)二月二八日の報恩寺寺領坪付注文(隈文書/久留米市史7 資料編古代・中世)には「くさハの村」とみえ、大善寺定額免のうち内鳥居免五段があった。


草場村
くさばむら

[現在地名]久留米市みや陣町大杜じんまちおおと

筑後川中流右岸の自然堤防上にあり、東縁を支流大刀洗たちあらい川が流れる。西はもり村。康永四年(一三四五)一〇月二八日の物部安延・安隆連署譲状(高良玉垂宮神秘書紙背文書/南北朝遺文(九州編)二)に「くまつるめ」(熊鶴女か)に譲渡された「きたしまうち、くさはのはたけ四反」は当地をさすか。物部氏は高良社大祝の家系でのち鏡山氏の祖となる。永正八年(一五一一)大友義長が小田原右京亮に「鰺坂庄之内、草庭之庄分」の一五町を宛行っている(同年五月一二日「大友氏加判衆連署奉書」志賀文書/大分県史料一三)


草場村
くさばむら

[現在地名]赤池町市場いちば直方のおがた金田屋敷かなだやしき

彦山川中流左岸に位置し、南は市津いつち村。中世は金田かなだ庄のうちにあった。元亨元年(一三二一)四月一五日の北条時直書下(二階堂文書/鎌倉遺文三六)弁城べんじよう(現方城町)などとともに「草場」がみえ、去年は請所であったので問題はなかったが、今年の所務は宇佐宮造営料米を除いて結解を遂げ、右衛門尉と相共に年貢を納入するよう「金田庄直人等中」に命じている。正平一二年(一三五七)には金田庄領家方の草場村七町余が領主上野入道西念後家に押領されている(同年九月日「金田庄領家分押領地頭等交名注文」青柳種信資料/南北朝遺文(九州編)四)


草場村
くさばむら

[現在地名]西区草場

桑原くわばら村の北、柑子こうじ岳の西麓にある。志摩しま郡に属する。北は小田こた村、西は桜井さくらい(現志摩町)小田村との境が分水界で、柑子岳に源を発する桜井川は糸島いとしま半島西岸に向かって流れ下る。天正一九年(一五九一)三月二三日の志摩郡惣田数付(朱雀家文書)、小早川時代の指出前之帳などでは桜井村の内に含まれる。慶長石高帳に草葉村とみえ、慶長七年(一六〇二)の検地高は二七六石余。元禄五年(一六九二)には高二八一石余(田圃志)。享保二年(一七一七)には村位は中、田一二町七反余・畠一八町九反余、高二八一石余(「志摩郡村々田畠畝高帳」鎌田家文書)


草場村
くさばむら

[現在地名]日田市渡里わたり 清岸寺町せいがんじまち

渡里村北方に位置する。東部の熊取くまとり豆田まめだ町から豊前中津に通じる道筋にあたり、山田やまだ田代たしろ峠を経て筑前小倉に至る道が分岐した。天正一八年(一五九〇)五月三日の大友吉統給地坪付(大友家文書録)に「夜開郷一所田地壱段 くさは」とみえ、財津木工入道跡地として堤鎮久に与えている。文禄二年(一五九三)と推定される二月二七日の毛利高政書状(石松文書)に草葉村とみえ、当村彦左衛門に公事が落着したことを知らせている。慶長一八年(一六一三)一〇月二三日の助丞書状(同文書)によれば、火事に対して蔵米のうち一〇石を進上すると草葉村刑左衛門に伝えている。


草場村
くさばむら

[現在地名]行橋市草場・東泉ひがしいずみ三―五丁目・南泉みなみいずみ五―七丁目

道場寺どうじようじ村の西に位置し、はらい川左岸に集落が形成されている。祓川を通じて今井いまい津に直結した交通の要衝である。祓川は正保国絵図には当村付近で分流し、津留つる村付近で合流していた。しかし元禄国絵図では分流しておらず、元禄(一六八八―一七〇四)頃までに大規模な治水工事が行われたものと考えられる。元和八年人畜改帳に村名がみえ、御蔵納分の高三一九石余、給地召上地分の高一六七石余、給人四人分の高三一七石余の三筆に分けられ、家数六一・人数一三六(うち庄屋一・百姓一八・名子・荒仕子二五)、牛一六・馬九。


草場村
くさばむら

[現在地名]佐賀市神野町こうのまちの一部(通称草場)神野西こうのにし二丁目・成章町せいしようまちの一部(通称平島ひらしま)・天神てんじん一―二丁目の一部(通称平島)

佐賀城下の北に位置する。現国鉄佐賀駅南の平島と佐賀駅構内付近から北にかけての草場からなる。近世は佐賀本藩の蔵入地。正保絵図に「草葉村」とある。村高は三三二石だが、天保九年(一八三八)の地米(年貢)高は三九九石余。


草場村
くさばむら

[現在地名]杵築市大内おおうち

杵築城下北浜きたはま口番所の坂を北方に下りて北浜新田の堤防を越え、高山たかやま川を渡った西方にある。往古は丘陵上の村落であったが、近世に入って南方を埋立て水田とした。国東くにさき安岐あき郷に属した。小倉藩元和人畜改帳では高一二三石余、家数一四・人数二四(うち本百姓五・名子二・山守一)、牛二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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