デジタル大辞泉
「荒井寛方」の意味・読み・例文・類語
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荒井 寛方
アライ カンポウ
明治〜昭和期の日本画家
- 生年
- 明治11(1878)年8月15日
- 没年
- 昭和20(1945)年4月21日
- 出生地
- 栃木県塩谷郡氏家町
- 本名
- 荒井 寛十郎
- 経歴
- 21歳で水野年方に師事し、文展に歴史画を多く出品する。大正3年再興された日本美術院に加わり、4年「乳糜供養」を出品して同人となる。5年来日したインドの詩人・画家、タゴールの知己を得てインドに渡り、ビジットラ美術学校で教鞭をとるかたわら、アジャンタの壁画などを模写し、7年に帰国。また13、14年と台湾、中国に渡り、15年には渡欧する。“仏画の寛方”と言われ、昭和15年から文部省の依嘱で法隆寺・金堂の壁画模写作業に専念したが、完成をみずに逝去した。平成元年タゴールから贈られた書「釈迦牟尼(しゃかむに)」が、タゴール国際大学の美術館に納められた。6年には栃木県氏家町の生家跡に二人の友情を記念する寛方タゴール平和公園が完成した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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荒井寛方
あらいかんぽう
(1878―1945)
日本画家。栃木県生まれ。本名寛十郎。水野年方(としかた)に師事し歴史画を学んだ。1900年(明治33)結成の紅児会(こうじかい)に加わる。初期の文展に出品していたが再興日本美術院に転じ、1915年(大正4)その第2回展に『乳糜(にゅうび)供養』を出品して同人に推された。翌1916年インドに渡り、アジャンタをはじめ中央アジア各地の壁画を模写した。1924、1925年に中国を旅行、1926年には渡欧してローマの遺跡などを訪ねる。仏画を描いて院展に出品を続け、法隆寺金堂壁画の模写事業にも加わった。
[原田 実]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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荒井寛方 あらい-かんぽう
1878-1945 明治-昭和時代前期の日本画家。
明治11年8月15日生まれ。水野年方に歴史画をまなぶ。大正4年院展に「乳糜(にゅうび)供養」を出品,同人に推される。5年インドにわたり,アジャンター壁画を模写。昭和15年より法隆寺金堂壁画の模写事業に参加した。昭和20年4月21日死去。68歳。栃木県出身。本名は寛十郎。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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荒井 寛方 (あらい かんぽう)
生年月日:1878年8月15日
明治時代-昭和時代の日本画家
1945年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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