絵画の一分野で,一般に,歴史上の事件や特定人物の営為を題材としたものをさすが,伝説に取材した絵画を含めていうこともある。元来歴史画は,権力者や支配体制が現実のできごとを美化する意図を強くもった場合に生まれるものである。主題は,古代には,戦勝を誇示するための戦闘場面がもっとも多かった。古代エジプトでは,第19王朝のセティ1世,ラメセス2世神殿の壁画に戦闘の光景が描写されている。ギリシアでは,ポリュグノトスがアテナイのストア・ポイキレに描いた〈マラトンの戦〉(前5世紀)や,エレトリアのフィロクセノスPhiloxenos(生没年不詳)による〈アレクサンドロス大王の戦〉(前300ころ。のちにモザイク化されて伝わる)などが知られる。ローマ帝政期には,凱旋門や記念柱(トラヤヌス,マルクス・アウレリウス)に戦勝のエピソードを表す浮彫が施された。中世になると,神の世界の描出が第一義とされ,また歴史意識の前提となる時間の観念が希薄であったため,現実に存在した人物が扱われても,歴史画としての性格は弱い。
ルネサンス期以降,歴史画は,神話ないし宗教的主題をもつ絵画をも含めていわれるようになる。すなわち,イタリア語のイストリアistoria,ストリアstoria(〈歴史〉〈物語〉の双方を意味する)のある絵画である。またこうした主題を選びとり,それを想像力によって的確に構成することをインベンツィオーネinvenzione(イタリア語)と呼ぶ。歴史画のこのようなとらえ方は,15世紀以後,L.B.アルベルティをはじめ多くの美術理論・批評家によって支持され,歴史画はルネサンス期の人文主義的環境の中で好んで描かれた(フーケ,マンテーニャ,レオナルド・ダ・ビンチ,ラファエロ,アルトドルファー)。17世紀には,ルーベンス,ベラスケス,プッサン等にその頂点が見られた。とくにフランスのアカデミーの絵画理念においては,歴史画は重要な概念となり,ジャンルとしても確立し,絵画の諸分野(静物画,風景画など)の中で最も高貴なものとされた。歴史画家でなくしてはアカデミーの教授には任命されえず,また歴史画はサロン(官展)に陳列されるときも,最も上の位置に飾られた(この思想は,17世紀フランスの美術史家A.フェリビアンに負うところが大きい)。18世紀ロココの時代には,風俗画や肖像画など歴史画以外のジャンルに関心が向けられたが,18世紀末から19世紀初頭にかけて,古代芸術への憧憬の高まりを背景に歴史画が復活し,ダビッドらによって緻密な写実による壮大な歴史画が制作された。しかし,19世紀後半になるとアカデミーの理念に対する反発が生じ,絵画はむしろ主題のもつ強制力から自由であるべきだとする考え方が強くなる。世紀末には,象徴主義の画家の一部や東欧,北欧の画家に歴史的主題に対する関心が見られたものの,一般には,時代の風俗性の表現や画家の個性,自我の主張を第一義に考える傾向が美術の主流をなし,それは今日も続いている。20世紀の作例としては,ピカソの《ゲルニカ》(1937)があげられよう。
執筆者:木村 三郎
ヨーロッパ的な意味での歴史画のジャンルは,東洋では近代まで確立されていない。しかし,日本の場合,歴史的事件や説話に取材した絵画は古来遺品も多い。たとえば,《平治物語絵巻》や文永・弘安の役に勇戦奮闘した竹崎季長が己の戦功を伝えるために描かせたといわれる《蒙古襲来絵詞》(鎌倉時代)などの合戦絵巻,また応天門の炎上事件を描いた《伴大納言絵詞》(平安末期)などの説話絵巻がある。近世では,大坂夏の陣に参加を許された黒田長政が記念として描かせたと伝える《大坂夏の陣図屛風》(六曲一双,17世紀)などの合戦図屛風が多数制作された。近代に入ると西洋から歴史画を含むさまざまな絵画思想がもたらされ,また明治前期の国粋主義的風潮の中でさかんに歴史画あるいは歴史風俗の情景が描かれた。明治20年代には曾山幸彦,本多錦吉郎,原田直次郎ら,明治30年代には青木繁,和田英作らがこれを手がけている。日本画ではこの傾向はより顕著にみられ,歴史画が長く主要なジャンルの一つとなった。明治前期の菱田春草,横山大観,下村観山らの,新日本画運動において,浪漫主義的な精神を基底として日本神話や軍記物,物語などに題材をとった作品が好んで描かれ,こうした気運は,安田靫彦,前田青邨らにも受け継がれた。
→合戦絵 →戦争画
執筆者:上田 敬二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
歴史上のできごと、あるいは物語に題材をとった絵画。また、作者と同時代の事件を扱った事件画といわれるものも含まれる。17世紀から19世紀にかけての西欧絵画のアカデミズムにおいては、神話画・宗教画とともに、歴史画は絵画の諸部門のなかでもっとも高貴な「偉大な部門」(グラン・ジャンル)と考えられ、肖像画、風俗画、静物画、風景画の上に位するものとされた。プサンたちはその意味でも偉大な画家とされたのである。
現実の歴史を題材とする絵画、彫刻は、古代世界以来多くの類例をもち、たとえばアッシリアの王たちは、彼らの征服の事績をフリーズ浮彫りとして宮殿の壁面を飾ったし、エジプトの王たちも戦闘の情景を描かせている。ギリシアでは、原作は失われたが、ローマのモザイクによる模作の残る『アレクサンドロス大王の戦闘』などがあげられる。しかし、こうした古代の歴史画が王たちの自己顕彰と記録という性格を帯びているのに対して、ルネサンス期以降には、芸術家の創造力、発想を刺激する題材として歴史画、物語画は好まれるようになる。17世紀はこの傾向がもっとも顕著な時代で、一方には『ブレダの開城』(ベラスケス)のような現実の事件を描く画家もいたが、フランス・アカデミーの古典主義は、古典としての歴史にあらゆる美徳をみいだそうとし、あるいは古代の物語そのものを規範とする姿勢で歴史画を求める。『アルカディアの牧人』(プサン)や『フォキオンの埋葬』を描くプサンがその典型である。
このアカデミズムの姿勢は19世紀まで続き、『ナポレオンの戴冠(たいかん)』(フランス美術)のダビッドをはじめとする歴史画が生まれる。しかし、ロマン主義の台頭は、歴史の対象を古典古代から中世に、さらにオリエントへと変える。ドラクロワの『サルダナパールの死』などである。同時に、ナポレオンの戦いやギリシア独立戦争などの現実の事件を描写した戦争画なども行われる。ロマン主義の烽火(のろし)となったジェリコーの『メデューズ号の筏(いかだ)』(ジェリコー)も現実の事件を描いた作品であるが、しかし、ここにはアカデミーの歴史画の理念である高貴・偉大はまったくない。こうして、やがて日常性を描くレアリスム、印象主義の登場とともにしだいに歴史画が近代絵画に占める役割は縮小し、世紀末の象徴主義や、民族的自覚によって描くロシアのレーピンたちの例を除けば、このジャンルはまったく顧みられなくなる。
日本でも明治になって、とくに日本画において、日本、中国、インドなどの歴史や故事を題材に多数描かれるようになった。そしてその流れは、大和(やまと)絵新興運動の松岡映丘(えいきゅう)や小堀鞆音(ともと)ら、院展系の安田靫彦(ゆきひこ)や前田青邨(せいそん)らに引き継がれて力作を生んだが、第二次世界大戦後はしだいに衰退の傾向にある。
[中山公男]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…また木版画,銅版画,石版画などの版画,あるいはその応用としての挿絵,ポスターなども,色と形による平面の造形芸術であるかぎり,絵画の一分野と考えられる。絵画の分類としては,画材,形式による分類のほか,主題による分類(歴史画,肖像画,風景画,静物画,風俗画等),社会的機能や役割による分類(宗教画,装飾画,記録画,教訓画等),地理的分類(イタリア絵画,フランス絵画,インド絵画等),歴史的流派や様式による分類(ゴシック絵画,バロック絵画,古典主義絵画,抽象絵画等)などがある。
[絵画の起源]
古代ギリシアのある伝説は,絵画の起源を次のように語っている。…
…02年17歳で第12回日本絵画共進会展に《金子家忠》を出品,3等褒状を受け,半古から青邨の号をもらう。その後今村紫紅,安田靫彦らの紅児会に加わり,新しい歴史画の研究に進み,12年,岡倉天心の示唆をうけて制作した《御輿振(みこしふり)》(絵巻)を第6回文展に出品,3等賞を受け画名を知られるようになった。14年再興日本美術院に参加し,その第1回院展に《竹取物語》(絵巻)と《湯治場》を出品,会期中に同人に推挙された。…
※「歴史画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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