百科事典マイペディア 「菅原荘」の意味・わかりやすい解説
菅原荘【すがわらのしょう】
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能登国羽咋(はくい)郡のうち現在の石川県羽咋郡宝達志水町の旧志雄町にあった荘園。もとは菅原保と称し国衙領であった。藤原基頼が能登守在任中,住人弘行の未進を理由に私領化し,1110年(天永1)10月にその田数50町(現作20町,荒野30町)を北野天満宮へ寄進した。この北野社領化に伴い〈菅原〉と命名されたという。ただし1221年(承久3)9月6日の能登国田数注文によれば立荘は1185年(文治1),田数は〈23町4反1〉としている。当荘の年貢20石が北野社常灯用途にあてられていたが,荘務の進止と常灯の奉行をめぐって,社家と社僧との間で相論があり,1232年(貞永1)4月25日宮寺政所の裁断によって,常灯奉行は社僧有禅の子孫に相伝することになった。その後,北野社の造営料所,また三年一請会料所ともなり,北野宮寺雑掌が当荘を管掌したが,室町初期以後は松梅院の支配下におかれた。しかし在地領主や百姓の年貢未進が続き,代官支配と直務がくりかえされた。1513年(永正10)6月5日の室町幕府奉行人奉書で菅原公用の社納分が先規のとおり松梅院禅光に安堵されているが,これ以後のことは不詳である。
執筆者:楠瀬 勝
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