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大田文 おおたぶみ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大田文
おおたぶみ

図田帳,田数帳ともいう。鎌倉幕府が各国の守護や国衙 (こくが) に命じて作成させた土地台帳。一国の荘園公領田畑面積,領有関係などを記載して,これによって所領関係の実態を把握し,貢租賦課の基準を明らかにした。現在ほぼその全貌が知られるのは,建久8 (1197) 年の日向,薩摩,大隅国図田帳承久3 (1221) 年の能登国図田帳,貞応2 (23) 年の石見国惣田数注文,淡路国領荘園田畠地頭注文,文永2 (65) 年の若狭国惣田数帳,弘安8 (85) 年の豊後国図田帳,但馬国大田文正応5 (92) 年の肥前国河上宮造営用途支配惣田数注文,嘉元4 (1306) 年の常陸国大田文などで,このほか肥後,筑後,豊前,筑前などの断簡が残っている。

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百科事典マイペディアの解説

大田文【おおたぶみ】

中世,特に鎌倉時代を中心に国ごとに作成され,国衙(こくが)領・荘園などの田数を記載した帳簿。田文・図田帳・田数帳とも。1国単位に各所領ごとの名称・田数・領有関係を調査したものをいい,国衙の在庁で作成。
→関連項目一国平均役倉見荘雀岐荘菅原荘鳥飼荘成相寺温泉荘

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世界大百科事典 第2版の解説

おおたぶみ【大田文】

中世,鎌倉時代を中心に国ごとに作成され,一国内の国衙領,荘園別に各所領ごとの名称,田積,所有関係などを記載した文書。田文,田数帳,図田帳などともいわれた。大田文の発生時期や経緯についてはまだ十分に解明されていないが,律令制下の班田図(国図)が作成されなくなった平安時代後期11世紀半ば以降に,中世につながる一国平均課役や荘園整理政策などが諸国に行われるようになって,その必要から作られるようになったのではないかと推定されている。

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大辞林 第三版の解説

おおたぶみ【大田文】

鎌倉時代、一国ごとに国内の田畑の面積・領有関係などを調査・記録した土地台帳。図田帳。田数帳。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大田文
おおたぶみ

鎌倉時代を中心に作成された一国ごとの国内の公領・荘園(しょうえん)の田積(でんせき)、領有関係を記した文書。田文(たぶみ)、田数帳(でんすうちょう)、田数目録、作田惣勘文(さくでんそうかんもん)、図田帳(ずでんちょう)などともいう。なお、郡、郷、名(みょう)単位、荘園単位の田積、領有関係を記したものも大田文、田文とよばれている。国の大田文として現存しているのは21種、うちほぼ完全な形で残っているのは、日向(ひゅうが)、大隅(おおすみ)、薩摩(さつま)、豊後(ぶんご)、能登(のと)、石見(いわみ)、淡路、若狭(わかさ)、常陸(ひたち)(2種)、但馬(たじま)、肥前、丹後(たんご)国の13種である。記載内容から分類すると、A型―国内国衙(こくが)領、荘園のすべての田積を記すもの、A′型―同じく田積さらに国衙領の応輸田(おうゆでん)の所当米(しょとうまい)を記すもの、B型―同じく田積さらに領有関係、とくに地頭の氏名を記すもののおよそ3種がある。記載方式の差異は作成目的、作成主体者によるものであり、A型は一国平均役(いっこくへいきんやく)の基礎資料、A′型は国衙の歳入・歳出を確定する予算書的なもの、B型は地頭補任(じとうぶにん)の確認および御家人(ごけにん)役賦課のための台帳と考えられ、A、A′型は国衙の在庁官人が国衙に整理、保存されていた台帳類から作成し、B型は守護が、在庁官人はもちろん御家人や各荘、郷、保に報告を求め作成したとみられる。鎌倉時代以降も一国平均役、段銭(たんせん)賦課の台帳として重視された。[飯沼賢司]
『石井進著『日本中世国家史の研究』(1970・岩波書店)』

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世界大百科事典内の大田文の言及

【国】より

…10世紀末から11世紀中葉にかけて,旧来の郡が郡,郷,院,別名などに分裂すると,それらは国衙に直結する支配単位すなわち単位所領とされ,国衙官人らによる国内の直接支配が形成された。そのような体制を前提として,院政期に入ると一国の単位所領を書き上げた大田文(おおたぶみ)が作成され,それを台帳として一国平均役の賦課が行われるようになった。内裏の大番制も,国司を責任者として各国単位に勤仕された。…

【天皇】より

… これらの,供御人となった商工民,芸能民,あるいは荘園に対する天皇家の支配は,古代末期から中世初期にかけて,摂関家をはじめ大寺社との激しい競合を通じて確保されたのであるが,延久(1069‐74)以後,頻々と発せられた公家新制―荘園整理令,神人(じにん)・寄人(よりうど)整理令によって,天皇は荘園の廃立,神人寄人の認可,停廃をみずからの意志の下に置き,荘園,公領をこえたより高次の権威を確立しようとした。大田文(おおたぶみ)や供御人,神人,寄人の交名(きようみよう)はその前提として作成され,大田文に記載された田地は公田と呼ばれて,大嘗祭,伊勢神宮の役夫工米(やくぶくまい)など国家的な行事,儀礼に必要な費用はこの公田を基準に,公事(くじ),一国平均役(いつこくへいきんやく)として賦課された。また,大寺社の神人,寄人となった商工民,芸能民に対しても,天皇は公役賦課権を保持していたのであり,国司,諸国追捕使を通じて,交名にのせられた〈武勇の輩〉にも軍役を賦課し,これを動員したのである。…

【能登国】より

…《拾芥抄(しゆうがいしよう)》に見える平安末期ごろの総田数は8479町である。
【中世】

[能登国大田文の世界]
 平安末期の能登国は平氏一門の知行国(ちぎようこく)であったが,1181年(養和1)には国守の派遣した目代(もくだい)が在地武士によって追放されるなど,平氏の支配に対し反乱的状況が生まれていた。83年(寿永2)木曾の源義仲が平氏軍を撃破して北陸道を西上してくると,土田,日置,武部らの能登武士は,その陣営に加わった。…

※「大田文」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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