菅尾石仏(読み)すがおせきぶつ

日本歴史地名大系 「菅尾石仏」の解説

菅尾石仏
すがおせきぶつ

[現在地名]三重町浅瀬

大野川右岸の乙黒おとぐろにある磨崖仏群で、急傾斜の石段を登りつめた台地上に位置する。大野川の浸食によって形成されたという凝灰岩の崖を深く彫込み、その石窟奥壁に向かって右から高浮彫の多聞天立像(像高約二三〇センチ)と、ほぼ丸彫に近い十一面観音(総高一八五センチ)阿弥陀如来(総高一八〇センチ)薬師如来(総高一七八センチ)千手観音(総高一九六センチ)の四坐像との計五体の尊像を刻み出し、前面には木造瓦葺の覆屋を造りつけてある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「菅尾石仏」の解説

すがおせきぶつ【菅尾石仏】


大分県豊後大野市三重町にある石仏。大野川東岸の丘陵中腹にある5体の磨崖仏。優れた彫刻であり、藤原期の神仏習合の姿をとどめる遺跡として、1934年(昭和9)に国の史跡に指定された。通称、岩権現あるいは五所権現と呼ばれ、覆堂の奥にある凝灰岩の岩壁に、幅約9m、高さ約4mの石龕(せきがん)をうがち、5体の仏像を刻んでいる。像は向かって左から千手観音、薬師如来、阿弥陀如来、十一面観音の4体が結跏趺坐(けっかふざ)し、右端のやや斜め向きの壁面に、多聞天(たもんてん)の立像がつきしたがう。坐像4体は火焔光背(こうはい)を負い、方形台座裳裾(もすそ)が垂れ下がる裳懸(もかけ)である。各像とも丸みのある顔立ちに気品があり、撫で肩の体型や張りのある膝などの肉取りも量感に富んでいることなどから、制作時期は平安時代後期(12世紀後半)、臼杵ホキ石仏よりやや降るころとみられている。JR豊肥本線菅尾駅から徒歩約25分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の菅尾石仏の言及

【三重[町]】より

…伝説によれば,欽明天皇のとき,百済(くだら)から僧蓮城を招来し,真名野(まなの)長者となった炭焼小五郎が建立したという。菅尾(すがお)石仏(史)は大野川に臨む断崖に刻まれた5体の石仏で,平安時代末期のものと推定されている。稲積(いなづみ)鍾乳洞では,洞内にたたえられた水の底に鍾乳石が見られ,水中宮殿として観光客を集めている。…

※「菅尾石仏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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