数学者。洋学者箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の次男として、江戸の津山藩邸で生まれ、父の実家菊池家を継いだ。6歳で蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に入り、9歳で句読(くとう)教授当分助(とうぶんのすけ)となる。11歳のとき幕命でイギリスに留学したが、幕府瓦解(がかい)のため帰国。1870年(明治3)明治政府の命で再度イギリスに留学し、1877年ケンブリッジ大学を卒業して帰国した。同年6月、東京大学創設に際し、日本人としてただ一人の東京大学理学部教授となり、以降20年間、数学を教授するとともに、多くの著書、啓蒙(けいもう)論文を著して数学の進歩に尽くし、藤沢利喜太郎(ふじさわりきたろう)、高木貞治(たかぎていじ)ら、次代の日本の数学を担った世界的にも著名な数学者を育てた。1898年東京帝国大学総長、1901年(明治34)文部大臣、1908年京都帝国大学総長、1909年帝国学士院院長などを歴任し、1917年(大正6)理化学研究所の設立とともに初代所長となるなど、日本の教育・文化の向上に大きな功績を残した。
おもな著作には、クリッフォードWilliam K. Clifford(1845―1879)とピアソン著の本の翻訳書『数理釈義』(1886・博聞社刊)と、菊池著の『初等幾何学教科書』巻1、2(1888、1889・文部省編輯局(へんしゅうきょく)刊)がある。前者はイギリス流の数学序説の内容で啓蒙書として重要である。また後者はユークリッド幾何の本で、比例理論まで述べたものであるが、当時世界的にも有数な理論的内容をもち、数学を正しく理解するためにはいかに深い考察を要するかを学界に知らせた意義は大きい。また、この本は官版の本としては初めての横書きで、分かち書きの本として有名であった。1912年には高校の解析幾何の教科書『Analytic Geometry』を著し、多く使われた。
[小松醇郎]
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
西洋の数学を初めて本格的に日本に紹介した明治時代の数学者。洋学者箕作秋坪(みつくりしゆうへい)の次男として江戸に生まれ,秋坪の実家菊池家を継ぐ。1861年(文久1)蕃書調所に入学し洋学を学び,64年(元治1)9歳でそこの句読教授当分助になる。66年(慶応2)11歳でイギリスに留学し68年(明治1)帰朝した。70年再びイギリスに留学,77年ケンブリッジ大学を卒業し,直ちに東京大学理学部教授となった。81年より93年まで理学部長(理科大学長)を歴任した。88年理学博士,89年東京学士会院会員,98年東大総長,1901年文部大臣,08年京都帝国大学総長,17年理化学研究所創立にあたり初代所長となった。この間帝国学士院長や枢密顧問官など多くの公職に就き,1904年男爵。《初等幾何学教科書》(1888),《Analytic Geometry》(1912)など優れた教科書を著すとともに,多くの啓蒙論文を書いて日本の数学思想の涵養(かんよう)に非常に功績があった。東大で,世界でも一流の数学者藤沢利喜太郎,高木貞治を育てるとともに,東京数学物理学会の発展に尽力した。箕作佳吉,元八は弟。
執筆者:小松 醇郎
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明治・大正期の数学者,教育行政家,男爵 文相;東京帝国大学総長;京都帝国大学総長;帝国学士院院長。
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数学者,文部大臣,東京帝国大学・京都帝国大学総長。江戸生まれ。洋学者箕作秋坪の次男。秋坪の実家菊池家を継いだ。蕃書調所で洋学を学び,1866年(慶応2)イギリスに留学し,68年(明治1)帰国。1870年再度イギリスに留学し,ケンブリッジ大学に学んだ。1877年同大学を卒業して帰国し,同年東京大学理学部教授。1888年理学博士。1890年貴族院議員となり,文部省専門学務局長,文部次官を経て,98年東京帝国大学総長。1901年文部大臣,翌年男爵となる。1908年京都帝国大学総長。以後,帝国学士院長,枢密顧問官,理化学研究所所長を歴任。藤沢利喜太郎・高木貞治などを育て,日本における西洋数学研究の基礎を築いた。『初等幾何学教科書』(1888年)などの教科書を執筆し,東京数学物理学会の発展に尽くした。大学人にして強い政治力を持った人物として注目される。
著者: 冨岡勝
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(中野実)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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1855.1.29~1917.8.19
明治期の数学者・教育行政官。江戸生れ。美作国津山藩の洋学者箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の次男。父の実家菊池家を継ぐ。1866年(慶応2)幕府から派遣されイギリスに留学,70年(明治3)再度イギリスに留学し数学・物理学を学ぶ。77年東京大学教授となり,文部省専門学務局局長,文部次官をへて98年東京帝国大学総長。1901年文相に就任したが,教科書疑獄事件により引責辞任した。08~12年(明治41~大正元)まで京都帝国大学総長。17年理化学研究所初代所長。著書「初等幾何学教科書」。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…文部省はこの事件を制度変更の絶好機としてとらえ,翌03年4月,小学校令一部改定により国定制度に切りかえた。04年4月から国定教科書が使用され始めたのは,修身,国語,地理,歴史の4教科であり,文相菊池大麓は,この4教科は日本の国体を教えるうえで重要な役割を負っており,相互に関連づけて編纂する必要があるので国定にするのだと明言していた。しかも修身などは,疑獄事件より先に文部省内で編纂がすすめられていたのである。…
…大きな業績としては数学用語の統一に力があった。84年に,菊池大麓を中心として,この学会は東京数学物理学会に脱皮し,機関誌は,会員の研究と外国の著名な論文の翻訳を掲載するようになった。運営は東京大学の関係者によりなされ,しだいに今日の学会の形態に近づいていった。…
…このような運動を基盤に,17年,〈物理学及化学に関する独創的研究を為し,之を奨励し,以て工業其他一般産業の発達に資〉すことを目的にして財団法人理化学研究所が設立され,最新の設備をもつ建物が18‐25年にかけて,東京文京区駒込に完成。初代所長は菊池大麓,次長は桜井錠二,化学部長池田菊苗,物理部長長岡半太郎という錚々(そうそう)たる陣容であった。こうして,学界はじめ各界の大きな期待を担って発足した理研ではあったが,第1次大戦後の経済不況のために,財界からの寄付金が予定通り集まらず,設立後数年を経ずして財政的に行き詰まってしまった。…
※「菊池大麓」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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