日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピアソン」の意味・わかりやすい解説
ピアソン(Karl Pearson)
ぴあそん
Karl Pearson
(1857―1936)
イギリスの統計学者。ロンドンに生まれる。ケンブリッジ大学を卒業後、ロンドン大学の応用数学および力学の教授となり、1911年からは優生学の教授をも務めた。長年思想的に悩み抜いて到達した結論が1892年刊行の『科学の文法』(邦訳書名『科学概論』)The Grammer of Scienceとなって広く読まれ、当時大きな反響をよんだ。その後F・ゴルトン、ウェルドンWalter Frank Raphael Weldon(1860―1906)両生物学者の協力により生物測定学を創立し、今日も継承されている学術雑誌『計量生物学』Biometrikaを1901年に創刊して優生学の確立に努めた。またこの間に、重相関、ピアソン型分布関数、モーメント法、カイ2乗(χ2)分布などを統計学に導入した。彼は先入観にとらわれず観測データに基づいて考えるべきことを力説し、大量観察データの分布に微分方程式
y′=y(a0+a1x)/(b0+b1x+b2x2)
を当てはめて種の分布曲線のありうることを示し、正規分布にならないデータは誤りであるとの旧来の考えを正した。晩年、R・A・フィッシャーと激しい論争を行ったが、フィッシャーの小試料論による近代数理統計学は、ピアソンが完成した記述的数理統計学を基盤とした革新的発展であるといえよう。なお、息子ピアソンEgon Sharpe Pearson(1895―1980)も父の後を継ぎ、計量生物学者として活躍した。
[米田桂三]
『平林初之輔訳『科学概論』(1930・春秋社)』
ピアソン(Lester B. Pearson)
ぴあそん
Lester B. Pearson
(1897―1972)
カナダの政治家。トロント、オックスフォード両大学で学んだのち、前者で歴史を教えた。外務省、駐米大使を経て1948年サン・ローラン自由党内閣外相、1949年北大西洋条約機構(NATO(ナトー))創設(議長)、1950年コロンボ会議、1951年対日講和会議に参加、1952~1953年国連総会議長。外務次官時代の1947年、パレスチナ分割(イスラエル建国)で国連安全保障委員会議長を務めたことを振り出しに、紛争調停役が身上となる。そのハイライトは海外では1956年のスエズ危機を国連監視軍派遣で解決、翌1957年ノーベル平和賞を受賞。国内では1963年首相就任後、英仏両系国民間の紛争融和対策に臨み、その結果は1968年首相引退の翌1969年、英仏二言語の公用語化として実現。1969年には世界銀行の委嘱で国際開発委員会を主宰、過去20年の発展途上国援助総括と将来への展望をピアソン報告書にまとめた。
[越智道雄]
ピアソン(Louis Valentine Pirsson)
ぴあそん
Louis Valentine Pirsson
(1860―1919)
アメリカの岩石学者。ニューヨーク市に生まれる。エール大学卒業後、同大学で岩石学を研究。1897年エール大学の物理地質学教授。1902年クロスCharles Whitman Cross(1854―1949)、イディングズJoseph Paxon Iddings(1857―1920)、H・S・ワシントンとともに、火成岩の化学成分を標準鉱物の量に換算して表すいわゆるノルムと、それに基づく火成岩の定量的分類法(4人の頭文字をとったCIPW分類法、ノルム分類法)を提唱した。主著に『岩石と岩石鉱物』(1908)がある。
[吉井敏尅]