日本大百科全書(ニッポニカ) 「数学教育」の意味・わかりやすい解説
数学教育
すうがくきょういく
人間は、なんらかの数学的な知識、能力なしには、現代の社会のなかでは生きていけない。それが役にたつような形に成長して表に出てくるためには、外からの意図的な働きかけが必要である。数学教育は、広義には、この成長を助ける人為的なあらゆる営みをさすもので、家庭における数学教育、大学を含めた学校における数学教育、青少年や成人を対象とした学校外の機関が行う社会教育としての数学教育などを幅広く含む。ここでは主として、小・中・高等学校等の学校教育における数学教育について述べる。
[島田 茂]
学校教育のなかの数学
数学は、近代の学校教育のなかでは、つねに重要な教科として尊重されてきた。その理由のおもなものをまとめてみると、次のとおりである。
(1)実用的な理由 数学を学ぶことは、日常生活や職業生活を営むうえで必要かつ有用である。数量を扱ったり、数学の方法を用いて問題を解決したり、意志を決定したりするうえで役にたつ。また科学の言語として、物理学などの科学への応用や科学技術を習得し、推進するうえで役にたつ。
(2)教養的な理由 人類が生み出した重要な学問領域としての数学の精神(知的な美しさ)を知ることは、音楽や、絵画を鑑賞するのと同じく、教養を高め、知的喜びを知ることにつながる。
(3)訓練的な理由 数学の学習を通して、広く論理的な思考能力が養われる。たとえば、数学は高度に抽象的な学問であり、理論を一つ一つ緻密(ちみつ)に築き上げていくやり方は、哲学や論理学などの人文科学へも広く応用できる。
(4)個性伸長上の理由 好奇心、探究心を駆り立て伸ばす。創造性を培う。数学的な潜在能力を引き出し、伸ばす。
[島田 茂]
数学教育の歴史
数学教育の二つの源流
数学は発生的にみて、人間の生きていくうえに欠くことのできないものとしてつくられてきた。たとえば、紀元前の古代バビロニアの数学的文献からも、衣食住の確保のための知識として、数学が漸次体系化されてきたものであることがわかる。
ところが、単に数量に関する知識の集積というだけでなく、これを論理的に体系化したのは古代ギリシア人で、ユークリッドの『ストイケイア』(『幾何学原本』前300ころ)は、その代表的なものであり、後世まで数学書のみならず科学書の典型ともされた。
数学教育の理念も、まずこの二つの源流から由来していると考えなければならない。すなわち、一つは、日常生活に有用な道具として数学を学ばせようという立場と、いま一つは、理論的な構成や論理的な思考法を数学を通して学ばせようという立場である。そして、中等教育では、本来的に社会の指導者の養成を目ざしていたので、そこではむしろ後者の立場が重視され、ユークリッドの原論のある部分はほとんどそのままの形で、19世紀の末まで中等教育のもっとも重要な教科書とされてきた。ここにみられる数学教育の理念は、いわゆる形式陶冶(とうや)とよばれるものであった。
しかし、科学・技術の進歩とともに、ギリシア的数学観だけでなく、古代エジプト、バビロニアにもみられる、もっと素朴な数学観も、中等学校の数学教育の理念として必要なものと見直されるようになった。つまり、日常生活、さらには自然科学の研究に有用な道具として、数学を教えようとする立場が強調されるようになった。いわゆる実質陶冶の理念にたった数学教育である。
実際、20世紀初頭、イギリスのジョン・ペリーによっておこされた数学教育改造運動の理念は、中等数学における実質陶冶的理念の高揚であったということができる。ペリーの主張はドイツのF・クラインやアメリカのムーアEliakin Hastings Moore(1862―1932)など、当時の代表的数学者にも支持されて世界的な教育改造運動にもなり、今日の数学教育も、この運動から基本的な影響を受けているとみることができる。
[平林一栄]
現代の数学教育
数学教育現代化運動
1960年代になって、数学教育にはいま一つの世界的な改造運動がおこってきた。それは数学教育現代化運動とよばれるもので、その発端となった理由は二つあるように思われる。一つは、科学・技術、とりわけコンピュータの急速な進歩である。1957年のソ連(当時)の人工衛星スプートニクは、この進歩の衝撃的な象徴であり、現代化運動の発端をスプートニクの打上げに置く人さえある。少なくとも、アメリカに始まり世界的にも多くの追随者が得られたSMSG(学校数学研究グループSchool Mathematics Study Group)の学校数学の現代的な教科書著作活動は、その発端をスプートニクに置いているとみてよいであろう。
現代化運動を推進した第二の理由は、1930年代における数学観そのものの変化にあったともみられる。つまり、このころから数学はもはや自然科学の召使いでなく、完全に独自の学問分野として急速な発展を示すようになったからである。とくに1939年以来ニコラ・ブルバキNicolas Bourbakiという共通のペンネームをもったフランスの一群の若い数学者たちの数学観は、もっとも明確に現代数学の自律性を主張するものであった。
それは、「数学は『構造』の研究である」ということばによって要約できるだろうが、少なくとも、これまでの学校数学ではあまり聞き慣れなかったことばであり、それだけに学校数学は現代数学から離れてしまっていたともいえる。現代化運動は、このような現代的数学観をいくらかでも学校教育に反映させようというねらいをもっていた。日本で小学校から「集合」が登場するようになったのもそのためである。実際「集合」は、現代数学の研究対象である「構造」を据え付ける場所であると考えられている。
しかしながら、今日では、現代化運動は失敗だったという人もいる。そして「集合」は日本の小学校では、少なくとも学習指導要領での用語としては消えてしまった。その理由は、現代数学の理念が、ときには教師自身をも含めて、一般には理解されにくいものであったからでもあろう。たとえば「構造」という概念自体、数学者にはきわめて常識的なものであっても、一般に理解しやすいように解説することはむずかしい概念である。
[平林一栄]
残された課題
数学教育の内容も、一般に考えられているほど単純ではない。たとえば、今日の中学校の水準でさえ、数・量・形などと単純に区分することはできない。ある人は数学教育の内容を「関係」であるといい、またある人は「構造」であるともいう。いずれにしても、数学をどうとらえるかによって、数学教育の内容のとらえ方も変わってくるといえよう。
一方、数学教育の内容は客観・主観の両面からとらえられるように思う。客観的には数学は人類の累積した数学的命題であり、それを学習させるのが数学教育であると考えられる。ところが、真に数学の名に値するものは、客観的内容そのものでなく、それをつくりだした人間の主観的精神活動であると考える立場もある。この立場からすれば、生徒に追体験として数学的考え方を学ばせることが数学教育であるということになる。
実際、今日の日本の中学校以上(考えようによれば小学5年以上)の数学内容の教育価値は、単なる日常的有用性だけからは認められない。また、科学・技術に数学を用いる人の数も実際にはきわめて少ないことからみても、前述の客観的立場だけから、普通教育における数学の必要性を主張することもできない。今日のように高校1年までは数学は全員必修になっている事実を是認するためには、前述の主観的立場にたって、数学的考え方の広範な転移を期待しなくてはならないであろう。1980年代の数学教育の焦点は「問題解決」にあるといわれたのも、それが数学的考え方をもっとも有機的に学習しうる領域であると考えられたからである。今日でも、この考え方には変化はない。
しかしながら、このような数学教育上の観点は、日本のような受験体制の強い国では十分に実践上に反映されえない。真の問題解決とは、仮設の設定、推理の実行、証明、検証などを含む一連の有機的な過程であり、早急に解答だけを求めればよい受験問題の解法からみれば、かなり迂遠(うえん)な手順の学習だとみなされるからである。また、問題解法の学習指導は単なるドリル指導とは違って複雑であり、教授方法学的にも研究されるべきところがまだ多く残されているといえよう。
[平林一栄]
日本の数学教育
日本に近代的な学校教育が始まったのは1872年(明治5)のことであるが、それ以降、教育のあり方についての考え方の変遷に伴って、強調される点にもいろいろな変化があった。以下これを時代別に概観してみよう。
[島田 茂]
明治期
この時代の前半は、欧米の数学教育の翻訳移入期であった。この時代の人たちの努力によって、これまでなかった訳語がつくられ、新しい文体が考案され、外国語を起源とする数学の記号系を日本語の文脈のなかに取り入れるくふうがなされるなどして、後の発展の基盤がつくられた。教育の考え方としては、小学校では、実用的な理由を第一にし、これに訓練的な理由が付加された形であった。中等学校では、欧米の学問を受け入れるという形での教養的な理由と、論理力を養うという訓練的な理由が強く意識され、このうちの第一の理由から、算術、代数(方程式を中心とした)、幾何(ユークリッドの『原本』に倣った形の平面・立体幾何)、三角法がそれぞれ独自の領域と方法をもつ体系的な学問として教えられた。教育の方法としては、教師の解説と示範、それを模倣する練習、重要事項の暗記などがおもなものであった。この傾向自体は大正、昭和初期まで続いた。
明治の中ほどからは、移入期の不統一な点が、有力な数学者たちの指導によってしだいに統一され、いちおう日本式の数学教育の形が決まってきた。このころのわが国では、算術、代数、幾何、三角法と分科をおいて、これを独立に扱う行き方や、厳格な静的な論理によって理論を進めるやり方がとられたが、20世紀に入るとヨーロッパやアメリカでは、これに対する反省がおこってきた。また代数や幾何の内容が、科学の言語としては現実からかなりかけ離れたものになっていることが批判されてきた。そして科学の言語としての実用的な面を重視し、関数概念、微積分を早期に導入するとともに、技巧的、末梢(まっしょう)的な内容を削除、軽減すること、科目間の関連を密にすること、実験、実習、作業など生徒が能動的に行う活動を取り入れることなどが主張されるようになった。
[島田 茂]
大正期より第二次世界大戦前まで
大正期になって、外国で始まったこの数学教育改造運動は、日本に漸次紹介されていった。また、この時期は、日本の中等教育・高等教育が拡大された時期で、進学熱も高まり、それに伴って上級学校への入学試験も厳しくなり、試験を目的とした数学教育が大きな力をもつようになった。出題する側では、型にはまらない問題で高い能力をみようとし、受験する側では、これに対処しようとして新しい型の問題を一つの型として覚えようとし、悪循環となって学習負担を増した。
こうして数学教育の本来のねらいから外れた受験目的の学習が進められていった。一方、心理学の発達は、数学の学習について無条件に訓練的な価値を前提とすることを否定するようになり、数学教育に関係する人に反省の契機を与えた。これらの点から、教育界の人たちに自分たちの努力で数学教育を改善しようという機運が高まり、1919年(大正8)日本中等教育数学会(現在の日本数学教育学会の前身)が結成され、そこを中心として数学教育についての研究や論議が活発に行われるようになった。また小学校では、生活と結び付いた生きた算数教育が注目され始め、数学教育は全体として改革の方向に進みながら昭和期に移っていった。大正期の終わりから第二次世界大戦終了の時期までは、大正期に萌芽(ほうが)をみせていた改革の方向が日本独自の形で結実をみた時期で、算数教育にあっては1935年(昭和10)に緑表紙といわれる国定教科書となって改革の理念が実現した。
中等教育では、先に述べた数学教育改造運動が、1933年(昭和8)の教授要目改訂にいちおう反映された。しかし、この改訂は不徹底な面もあり、また受験数学の勢いにも押されて十分な成果をあげるには至らなかった。これを不満としていっそうの改善を求める動きが、数学教育再構成運動として1940年ころより始まり、これを受けて、1942年に中等学校の教授要目の大幅な改訂が行われた。ここで初めて微積分初歩を中等教育に取り入れるという内容的な面とともに、教養的な面においても、既成の体系を授けるという考えから、生徒に体系を組み立てさせるという方向に大転換した。これに伴い、作業や討議などの学習活動も大いに取り入れられることになったが、戦争の激化とともに、改訂の主旨に沿った教育を実施することは不可能なまま戦後を迎えた。
[島田 茂]
第二次世界大戦後より今日まで
第二次世界大戦前は旧制中学校の数学教育だけがもっとも熱心に語られた。戦後の中学校数学教育は小学校の算数教育とともに、占領軍総司令部の民間情報教育部(CIE)の指令によって、「生活単元学習」というまったく新しい数学教育に切り替えられたが、新制高等学校の数学の理念は、このような根本的変革はまぬがれ、1942年(昭和17)の改訂教授要目の精神はかろうじて保たれた。そして1947年には国定教科書として「解析Ⅰ」「解析Ⅱ」「幾何Ⅰ」「幾何Ⅱ」の教科書がつくられたが、1948年の学習指導要領(試案)でもこの形式は保たれ、ただ「一般数学」として、単元学習的科目も置かれていた。
問題は新制中学校のカリキュラムであった。それは、小学校と同じく生活単元学習の精神に基づくものであったが、旧制中学校での伝統的な数学内容をそれにどうつなぐかは、きわめてむずかしい問題であった。1947年に文部省(現文部科学省)の作成した教科書「中等数学」には、この両者の折衷の苦心がみられる。新制中学校はわが国ではまったく新しい学校であった。それは義務教育としては小学校につながり、中等教育としては高等学校につながっているが、両者の教育理念は歴史発生的にみて独立したものであった。数学、とくに幾何は、中等教育に固有な教科としての伝統をもち、すべての子供に学習させるものではなかった。それが、第二次世界大戦後すべての子供に一様に課せられるようになったことは、きわめて重大な問題をはらんでいた。数学嫌いの防止、エリート教育の可否など、今日でもまだ未解決な数学教育の諸問題は、新制中学校の性格にまつわる宿命的なものであろう。1958年の学習指導要領の改訂では、単元学習は系統学習に切り替えられ、純粋に数学的内容が主になったが、それでも内容に一部選択性をとったのは、やはり新制中学校の二重性格によるものであったろう。
1951年(昭和26)ごろから、文部省は、小・中学校の算数・数学はそのままにして、高等学校数学だけの改訂を企てていたが、1956年にその学習指導要領を公布した。ここでは、科目の区分は「数学Ⅰ」「数学ⅡA」「数学ⅡB」「数学Ⅲ」となり、職業課程にはこのほかに「応用数学」がおかれた。この区分は、伝統的な「算術」「解析」「幾何」のような分科的な区分ではなく、改造期の融合の精神に基づく区分に近い。これとともに各科目に中心概念が示されたことも、この改訂版の特色であった。
これ以後ほぼ10年ごとに学習指導要領の改訂が行われる。それぞれ1969、1970年に告示された中学校、高等学校の学習指導要領数学編は、当時世界的な数学教育思潮となっていた「現代化」の精神を反映させたものであった。それは「現代の数学からみて今の学校数学はきわめて古くさく、もっと現代数学の精神を学校数学に反映させるべきだ」という主張であった。日本では、これらの諸外国の改革運動に多分に影響されたが、その一つの表れがこの学習指導要領の改訂であった。この「現代化」のプログラムは、日本では先進諸国に比してそれほど過激なものではなかったが、軌道修正の声もあって、それぞれ1977、1978年の改訂では、中学、高校ともに多少の内容の軽減が図られた。とくにこのころ高校の進学率は94%に達し、小・中・高一貫教育が語られるようになったため、内容の選択性もこれまで以上に真剣に考えられねばならなくなった。
1989年(平成1)の学習指導要領では、生徒の学力差に対応する処置がいっそう考慮され、中学校数学の内容が高校に移されることもあったが、高校での内容はさらに選択履修しやすく区分されたことが注目される。高校数学は「数学Ⅰ」「数学Ⅱ」「数学Ⅲ」と「数学A」「数学B」「数学C」の2系列からなり、前者は主要な内容、後者は補足的な内容となった。そして、「数学Ⅰ」の3単位だけが必修となった。さらに1999年の学習指導要領では中学校の内容はさらに軽減され、高校では前述の2系列のほかに「基礎数学」という2単位の科目が設けられ、これだけを必修にすることができるようになった。
中等教育の数学の変遷には、二つの動因がある。一つは受験であり、もう一つは生徒の多様化への対策である。前者は数学的創造性を弱め、後者は内容の軽減に陥りやすい。科学技術が要請する人材の育成と、すべての人に必要な数学的教養を与えることの両立のむずかしさを、これまでの歴史は示している。
[平林一栄]
『小倉金之助著『数学教育史』(1932・岩波書店)』▽『小倉金之助・鍋島信太郎著『現代数学教育史』(1957・大日本図書)』▽『文部省編『中学校高等学校数学講座 数学教育現代化へのアプローチ』(1966・学校教育研究所)』▽『数学教育国際委員会編、数学教育新動向研究会訳『世界の数学教育――その新しい動向』(1980・共立出版)』▽『M・クライン著、柴田録次監訳『数学教育現代化の失敗』(1976・黎明書房)』▽『佐々木元太郎著『現代数学教育史年表』(1985・聖文社)』▽『佐々木元太郎著『数学教育学の研究』(1986・教育出版センター)』▽『日本数学教育学会編『中等学校数学教育史上・下』(1986・新教社)』