菊池武朝(読み)キクチタケトモ

デジタル大辞泉 「菊池武朝」の意味・読み・例文・類語

きくち‐たけとも【菊池武朝】

[1363~1407]南北朝時代武将肥後の人。武光の孫。初名、武興。征西将軍良成親王を立てて今川了俊各地戦い南朝勢力の回復に努めたが、のち、衰退した。

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精選版 日本国語大辞典 「菊池武朝」の意味・読み・例文・類語

きくち‐たけとも【菊池武朝】

  1. 南北朝時代の武将。武光の孫。初名武興。法名玄徹常朝。征西将軍懐良(かねよし)親王を立てて九州探題今川貞世(了俊)と各地で戦い、南朝の勢力回復に努める。のち肥後菊池城を奪われ、八代に退くが、南北朝合一の後、本拠にもどり、肥後守護となる。貞治二=正平一八~応永一四年(一三六三‐一四〇七

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朝日日本歴史人物事典 「菊池武朝」の解説

菊池武朝

没年:応永14.3.18(1407.4.25)
生年:貞治2/正平18(1363)
南北朝・室町時代の武将,守護大名。武政の子,武光の孫。幼名賀々丸,初名武興。本拠は肥後隈府(熊本県菊池市)。大宰府陥落後,筑後高良山で九州探題今川了俊と対陣中に祖父と父の死去にあい,12,3歳で家督を継ぐ。応安7/文中3(1374)年筑後福童原合戦で今川方に敗れ撤兵明徳2/元中8(1391)年まで肥後国内で了俊と戦う。永和1/天授1(1375)年の水島陣では今川陣内部の混乱に乗じて勝利したが,永和3/天授3年の肥前蜷打の合戦で敗北。翌年の肥後詫麻原合戦では勝利したものの,まもなく諸城は包囲され,永徳1/弘和1(1381)年落城した。その後は,肥後南部で征西将軍良成親王を奉じて抗戦。この間吉野の朝廷に呈上したといわれる「菊池武朝申状」は,菊池歴代と自らの軍功について述べ著名。南北朝合一後は,了俊の九州経営政策に沿って本領を回復し,その探題解任後の空白のなか,肥後一国の守護大名の地位を獲得した。<参考文献>『阿蘇文書

(阿蘇品保夫)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「菊池武朝」の意味・わかりやすい解説

菊池武朝
きくちたけとも
(?―1407)

南北朝末・室町初期の肥後の武将。肥後守。幼名賀々丸(ががまる)、初名武興(たけおき)、法名常朝(じょうちょう)。1373年(文中2・応安6)・1374年、大宰府を追われ筑後高良山(こうらさん)に拠った征西府の柱石の祖父武光(たけみつ)・父武政が相次いで没し、若年で家督を継ぐ。以後征西将軍宮を擁して、九州探題今川了俊(りょうしゅん)らの武家方と、肥後北部を中心に戦いを続けたが、1381年(弘和1・永徳1)本拠の隈部山城(くまべさんじょう)(現、熊本県菊池市隈府(わいふ))を失った。南北朝合一に伴い、了俊は大友・島津ら有力守護への対抗上菊池氏の本領を安堵(あんど)し、武朝は事実上肥後守護の地位を得た。1395年(応永2)の了俊改易後は、探題渋川満頼と対立したが、その後も菊池氏は肥後の守護職を維持した。

[工藤敬一]

『阿蘇品保夫著『菊池一族』改訂新版(2007・新人物往来社)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「菊池武朝」の解説

菊池武朝 きくち-たけとも

1363-1407 南北朝-室町時代の武将。
貞治(じょうじ)2=正平(しょうへい)18年生まれ。菊池武政(たけまさ)の子。12歳で肥後(熊本県)菊池氏惣領(そうりょう)17代をつぐ。九州南朝方の中心として懐良(かねよし)親王,良成(よしなり)親王を奉じて九州探題今川貞世(さだよ)とたたかうが,敗れて本城の隈部(くまべ)城を追われる。南北朝合一後菊池にかえり,肥後守護職(しき)をえた。応永14年3月18日死去。45歳。幼名は加賀丸。初名は武興。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「菊池武朝」の意味・わかりやすい解説

菊池武朝
きくちたけとも

[生]正平18=貞治2(1363)
[没]応永14(1407)
南北朝時代の肥後の武将。肥後守。菊池武光の孫。幼少にして家督を継ぎ,のち征西将軍宮良成親王を擁し,九州探題今川了俊 (貞世) と各地で交戦したが,八代に敗退。南北朝統一後,拠城に帰った。 (→菊池氏 )

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世界大百科事典(旧版)内の菊池武朝の言及

【筑後国】より

…71年(建徳2∥応安4)九州に下向した九州探題今川了俊は守護に補任され,国内の宮方の攻略にもあたった。74年(文中3∥応安7)了俊は高良山に陣をとる菊池武朝を攻め,武朝は肥後に帰国した。幕府方は当国内の荘園の半済(はんぜい)を行い,武士に給与したが,給人による荘園押領があいついだため,幕府方は半済給人の違乱停止を命じている。…

※「菊池武朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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