蓬莱山人帰橋(読み)ほうらいさんじんききょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「蓬莱山人帰橋」の意味・わかりやすい解説

蓬莱山人帰橋
ほうらいさんじんききょう

生没年未詳。江戸後期の洒落本(しゃれぼん)・黄表紙作者。上州高崎藩松平侯の家臣で、江戸・桜田の松平邸に住した河野某といわれ、その名については未詳。江戸・深川の遊里を舞台にした洒落本『通仁枕言葉(つうじんまくらことば)』(1781)、『富賀川拝見(ふかがわはいけん)』(1782)、『愚人贅漢居続借金(ぐにんおとこいつつかりがね)』(1783)等で筆名が高く、深川遊里の消息や当時の流行風俗、通言、洒落を巧みに織り込んだ心理描写と人物描写は、当時の戯作(げさく)者たちの遊里に遊ぶ日常生活を彷彿(ほうふつ)とさせ、田螺金魚(たにしきんぎょ)と並ぶ洒落本作者にあげられ、その著作姿勢は後の山東京伝に多くの影響を与えている。寛政(かんせい)年中(1789~1801)には、主君の命により戯作の筆を絶ったと伝えられる。狂名を大(だい)の鈍金無(どんのかねなし)といい、黄表紙に『間似合嘘言曽我(まにあいうそつきそが)』(1785)等の作がある。

[棚橋正博]


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改訂新版 世界大百科事典 「蓬莱山人帰橋」の意味・わかりやすい解説

蓬萊山人帰橋 (ほうらいさんじんききょう)

江戸後期の洒落本作者。生没年不詳。本姓河野氏。上州高崎藩士で江戸深川に住む。1779年(安永8)《美地の蠣殻(かきから)》以後,《通仁枕言葉(つうじんまくらことば)》(1781),《富賀川(ふかがわ)拝見》(1782)など,深川の遊里に強い愛着を持ち,その風俗をうがち,深川女の意気地を描く。また大の鈍金無(のろまかねなし)の狂号で大田南畝ら狂歌師と親交があり,その交遊のさまが《愚人贅漢居続借金(ぐにんおとこいつつかりがね)》(1783)に描かれている。
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朝日日本歴史人物事典 「蓬莱山人帰橋」の解説

蓬莱山人帰橋

生年:生没年不詳
江戸中期の戯作者一説に,寛政1年2月26日(1789年3月22日)没,享年30歳であった高崎藩士河野通秀をその人とする。狂歌号は大の鈍金無。江戸深川の遊里に取材した洒落本を安永8(1779)年から天明3(1783)年までの4年ほどの間に8部刊行し,以後は黄表紙に転じて,やがて寛政の改革の直前に戯作界から姿を消したのは,武士としての身分上,主命によったとされる。作風は極めて細密な風俗描写を,対象を裏からみて,その癖,欠点を指摘するという,いわゆる「うがち」と称される手法を用いて徹底させ,天明期洒落本の主流を作り出している。のちの山東京伝などもその線上に生じたともいえよう。

(中野三敏)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「蓬莱山人帰橋」の解説

蓬莱山人帰橋 ほうらいさんじん-ききょう

?-? 江戸時代中期の戯作者(げさくしゃ)。
上野(こうずけ)(群馬県)高崎藩士で江戸詰めの河野通秀といわれる。安永-天明年間(1772-89)江戸深川の遊里を舞台にした洒落(しゃれ)本を発表。黄表紙もかき,狂歌もつくった。狂号は大の鈍金無(だいのどん-かねなし)。作品に「美地之蠣殻(みちのかきがら)」「通仁枕言葉(つうじんまくらことば)」など。

蓬莱山人帰橋(2代) ほうらいさんじん-ききょう

烏亭焉馬(うてい-えんば)(2代)

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