蓼太(読み)リョウタ

デジタル大辞泉 「蓼太」の意味・読み・例文・類語

りょうた〔レウタ〕【蓼太】

大島蓼太おおしまりょうた

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精選版 日本国語大辞典 「蓼太」の意味・読み・例文・類語

りょうた レウタ【蓼太】

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「蓼太」の意味・わかりやすい解説

蓼太
りょうた
(1718―1787)

江戸中期の俳人。大島氏。本姓吉川(きっかわ)氏。名は陽喬(ようきょう)。通称平助または平八。別号雪中庵(せっちゅうあん)、宜来(ぎらい)、空摩居士(くうまこじ)など。出生については木曽(きそ)、松代(まつしろ)、江戸などの説もあるが、信濃(しなの)伊那(いな)郡大島(長野県上伊那郡飯島町)が最有力である。蓼太の幼少時に一家は江戸に出て幕府の御用縫物師を勤めた。初め点取俳諧(はいかい)をしていたが、雪中庵2世吏登(りとう)に入門、しだいに頭角を現した。その間、奥羽、関西を行脚(あんぎゃ)、各地の俳友と交流し見聞を広め、1750年(寛延3)に雪中庵3世を継いだ。『続五色墨(ごしきずみ)』結成や『雪おろし』によって江戸座宗匠の旧態を批判し、江戸俳壇に地位を占めた。その後、宝暦(ほうれき)・明和(めいわ)・安永(あんえい)期(1751~1781)の活躍は目覚ましく、完来編『藤衣(ふじごろも)』(1787)によれば、東西の吟行50余度、俳書の編著200有余、文台(ぶんだい)を許した者40余人、門人2000余に及んだという。芭蕉(ばしょう)復帰を唱え、その研究と顕彰、江戸俳壇の刷新、俳諧の普及など、天明(てんめい)期(1781~1789)の俳諧復興に果たした功績は絶大であった。俳風は平明を理想としたが通俗的な傾向もみられる。編著は『ほうぐ袋』(1743)、『七柏(ななかしわ)集』(1781)など多数ある。天明7年9月7日没。

[松尾勝郎]

『中村俊定著『大島蓼太』(『俳句講座3 俳人評伝 下』所収・1959・明治書院)』

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改訂新版 世界大百科事典 「蓼太」の意味・わかりやすい解説

蓼太 (りょうた)
生没年:1718-87(享保3-天明7)

江戸中期の俳人。姓は大島。通称は平助または平八。別号は宜来(ぎらい),里席,雪中庵,空摩居士など。信濃国伊那に生まれた(出生地についてはほかに,木曾,松代,江戸の3説がある)。若くして家を出て御用縫物師を勤め,また出家を思い立ったこともあるという。江戸において嵐雪門の吏登(りと)に俳諧を学び,1741年(寛保1)《春の月》を編纂,刊行,翌年芭蕉のあとを慕って東北地方を旅し,遺吟を集めたりした。51年(宝暦1)には《雪おろし》で当時勢力のあった江戸座を批判し,論争の末,江戸の俳壇に確かな地位を占めた。雪中庵3世を名のって芭蕉復帰を唱え,連句に関する高い見識を示し,多くの門弟を擁した。《ほうぐ袋》《俳諧無門関》《七柏集》など編著が多い。〈ともしびを見れば風あり夜の雪〉(《蓼太句集》)。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「蓼太」の解説

蓼太 りょうた

大島蓼太(おおしま-りょうた)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「蓼太」の意味・わかりやすい解説

蓼太
りょうた

大島蓼太」のページをご覧ください。

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