蔵人村
くらんどむら
[現在地名]宝塚市高司一―五丁目・美幸町・末成町・高松町・御所の前町・中野町・大成町・大吹町・新明和町・駒の町・光明町・小林五丁目・仁川台・仁川北一―二丁目・蔵人
武庫郡に所属。小林村の南東に位置し東は武庫川を挟んで川辺郡新田中野村のうち西野(現伊丹市)。南側を同川支流仁川が流れ、武庫川に面した低地に二集落があり、東蔵人・西蔵人とよんだ。逆瀬川上流の右岸に山がある。慶長国絵図に村名がみえ高四五四石余。正保郷帳では高四五二石、ほかに新田高二七石余。寛文九年(一六六九)頃の尼崎藩青山氏領地調(加藤家文書)では高四五二石余・新田高四二石余。天和―貞享(一六八一―八八)頃の尼崎領内高・家数・人数・船数等覚(金蓮寺旧蔵文書)では本高四五二石・新田一二六石余。享保二〇年(一七三五)の摂河泉石高調では高五七六石余となり、文政一一年(一八二八)の覚(岡本家文書)は内訳を本田五一〇石余・新田六六石余とする。
蔵人村
くろうどむら
中世後期、榎坂郷榎坂村内の東寺領垂水庄内(現江坂町二丁目辺り)に形成された村。村名は応永一〇年(一四〇三)五月日付の春日社領榎坂郷名主百姓等申状案(東寺百合文書)にみえる。この申状は南部を流れる三国川(現神崎川)の堤修築のうち垂水庄負担部分の修築がなされず、そこから溢水するので領主東寺が修築料足を下行して築堤するよう求めている。鎌倉期には東寺領垂水庄と奈良春日社領垂水西牧榎坂郷の双方に名田を請作する者が多かったが、南北朝期には垂水庄内にのみ名田をもつ名が現れ、庄内での節供・節分の神楽、冬の法焼(火焼)行事などに関する領主側の費用負担(下行分)が慣行として成立しており、それを破った半済給人の非法に対して在村農民は本庄の百姓と称して抵抗している(貞治三年三月一四日「垂水庄番頭百姓等申状」同文書ほか)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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