蕨村(読み)わらびむら

日本歴史地名大系 「蕨村」の解説

蕨村
わらびむら

[現在地名]福江市蕨町

久賀ひさか島の北東部に位置し、奈留なる瀬戸に臨む。南に福見ふくみ岳・しら岳などがある。かつて北方六〇キロの海上に高麗こうらい島があったが、島で祀っていた地蔵の顔に赤土を塗る者がおり、島民の夢告のとおり島が陥没するという一大事が起き、地蔵は当地にもたらされたという。江戸時代初期、キリシタン弾圧で村民すべてが転びとなり、各地に離散したと伝える。江戸時代は福江藩領久賀掛に属する。寛永年間(一六二四―四四)福江藩の政策によりおもに中国地方からの移民が推進され、開墾が行われたという(公譜別録拾遺)。寛永一四年の久賀掛畠帳(青方文書)に蕨村とみえ、本畠方三反余・分米二石余。


蕨村
わらびむら

[現在地名]富岡市蕨

ほし川が南境を東南流、東は奥平おくだいら村・坂口さかぐち(現多野郡吉井町)、西は相野田あいのた村、北は大桑原おおくわはら村と接する。近世はおおむね七日市藩領。寛文郷帳では田方二八一石一斗余・畑方一一八石八斗余。天明三年(一七八三)写の領内村高等覚(保阪文書)によると田一五町九畝余・畑三一町四反五畝余。天保三年(一八三二)の領内郷村高帳(同文書)には高五五六石余、新田畑一五五石余とある。


蕨村
わらびむら

[現在地名]丹波町字下山しもやま

黒瀬くろぜ村の北、蕨野とよばれる原野にある。東は胡麻畑ごまはた村・下草原しもくさはら(現日吉町)、西は尾長野おながの村、北は升谷ますたに(現和知町)。西部一帯が高原状台地で集落があり、東は標高四〇〇―五〇〇メートルの山地である。園部藩領。

元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳の村高は七一石余であるが、天保郷帳では一三七石余とほぼ倍増石高の倍増は当地域の他の村も同様であった。広野の開拓によるものであろう。


蕨村
わらびむら

[現在地名]亘理町逢隈蕨おうくまわらび

南は高屋こうや村、西は鷺屋さぎや村・榎袋えのきぶくろ村、北は十文字じゆうもんじ村、東は高須賀たかすか村。正保郷帳では田八七貫二六六文・畑四貫一九一文で、旱損の村と注記される。「安永風土記」では田九〇貫八二七文・畑四貫四〇二文で蔵入地一二文、残りは亘理伊達氏の知行地(うち新田分三貫七七二文)。人頭一四人のうち寛永一九年(一六四二)の竿答百姓六人。この間に北河内屋敷ほつこうちやしきに一軒の沽却禿が出ている。


蕨村
わらびむら

[現在地名]下館市蕨

小貝こかい川右岸、筑波街道沿いにあり、北は下中山しもなかやま村。文明一〇年(一四七八)水谷勝氏が下館に築城後、同氏の支配地となり、江戸時代は寛永一九年―寛文三年(一六四二―六三)の在番時代を除き下館藩領。元和九年(一六二三)水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)に、村高二六〇・二三三石とあり、天保八年(一八三七)の常陸御国絵図御改之記(同文書)には鎮守弁才天、家数一五、馬八とある。


蕨村
わらびむら

[現在地名]玉造町芹沢せりざわ

東は芹沢村、西は捻木ねじき村。村名の由来は「新編常陸国誌」に「相伝、往昔佐々木氏ノ裔山中清定、武州蕨村ヨリ移テ、此地ニ住ス、村名ハコレヨリ起ルト云フ」とある。江戸時代は水戸藩領で「常陸紅葉郡鑑」(楯石氏蔵)に田二〇五石余・畠六四石余とあり、白幡八幡宮・山中屋敷・経塚などが載る。「水府志料」には「戸凡三十、其地芹沢に相接し、二村にして一村のごとし」と記され、天保一一年(一八四〇)の玉造組村々田畑人馬書上(関口家文書)には田二〇一石余・畠六四石余・新高七七石余、「家人馬芹沢村へ組入れ」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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