薩摩治郎八(読み)さつまじろはち

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「薩摩治郎八」の意味・わかりやすい解説

薩摩治郎八
さつまじろはち

[生]1901.4.12. 東京
[没]1976.2.22. 徳島
国際的社交人。祖父極貧から一代で財を成した近江商人。 1918年オックスフォード大学に留学する。 21年パリに移り住み,バロン薩摩と呼ばれパリ社交界の人気者となる。藤田嗣治 (ふじたつぐはる) ,ラベル,ミロら芸術家と親交を深める一方,藤原義江,原智恵子らを援助してデビューさせたり,私財を投じてパリの大学都市に留学生会館「日本館」を建設 (25年開館) するなど日仏の文化交流に努めた。 26年フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章した。第2次世界大戦後,無一文で帰国し,随筆家となる。 59年徳島に阿波踊り見物に出かけた際,脳卒中倒れ,以来,死去するまでの 17年間を徳島で過した。著書に『巴里・女・戦争』 (54) ,『せ・し・ぼん-わが半生の夢』 (55) ,『ぶどう酒物語』 (58) などがある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「薩摩治郎八」の意味・わかりやすい解説

薩摩治郎八
さつまじろはち
(1901―1976)

著述家。綿織物成金となった薩摩治郎兵衛の孫として東京に生まれる。1918年(大正7)に渡英し、オックスフォード大学に学び、のちパリに移る。外人部隊に加わって負傷し、社交界の花形になり、藤田嗣治(つぐはる)や岡鹿之助(しかのすけ)などの画家や藤原義江(よしえ)、原知恵子など音楽家の世話をし、一時帰国して伯爵令嬢山田千代子と結婚するなど、「バロン・サツマ」の異名のもとに多彩な人生を送る。1929年(昭和4)パリの大学都市に私財2億円で日本館を建設、寄贈し、レジオン・ドヌール勲章を受ける。1949年、千代子と死別。1951年、30年間の滞仏を切り上げて無一文で帰国。コラムニストとなり、浅草の踊り子と再婚。脳溢血(のういっけつ)で倒れ、昭和51年2月22日徳島で死去。『巴里(パリ)・女・戦争』などの著書がある。

富田 仁]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「薩摩治郎八」の解説

薩摩治郎八 さつま-じろはち

1901-1976 大正-昭和時代の国際的社交家
明治34年4月13日生まれ。薩摩治兵衛の孫。大正7年オックスフォード大に留学。のちパリ社交界の花形となり,藤田嗣治(つぐはる),ミロらとまじわる。昭和4年パリの大学国際都市に日本館を建設,寄贈してレジオン-ドヌール勲章受章。26年帰国し,昭和51年2月22日徳島で死去。74歳。東京出身。通称はバロン薩摩。

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