朝日日本歴史人物事典 「藤原保則」の解説
藤原保則
生年:天長2(825)
平安前期の官人。貞雄と安倍弟富(当とも)の子。備中,備前,播磨,讃岐などの諸国司を歴任し,仁政を行ったことで名声を得た良吏の典型。その徳行は没後12年の延喜7(907)年,三善清行の手になる『藤原保則伝』によって伝えられるが,備中,備前時代,「父母」と呼ばれて慕われたことや,その仁政を聞いて感服した備後の盗賊が保則の前に自首してきたこと,あるいは任を終えて帰京の折,名残を惜しむ村人らが際限なくやってくるので小船でひそかに出立したといった逸話を残す。元慶2(878)年,出羽(秋田,山形県)の蝦夷が反乱を起こしたとき(元慶の乱),軍事経験のない保則が出羽権守として起用されたのも行政手腕が評価されたもので,施政の方針を聞かれた保則は,仁政をもって帰服させることが肝要で,なお鎮まらないときはじめて兵威をもって臨むべきである,と答えるなど,政治哲学の持ち主でもあった。保則の懐柔策は功を奏し,ここに至って奈良期以来続いた蝦夷の反乱はようやく鎮まった。寛平4(892)年参議となった。晩年は仏教に帰依して般若経の義疏を選集,比叡山で落髪入道した。
(瀧浪貞子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報