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藤原師光 ふじわらのもろみつ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原師光
ふじわらのもろみつ

[生]?
[没]治承1(1177).6.2.
平安時代後期の廷臣。初め藤原通憲 (法名信西) に仕えたが,平治の乱に通憲が敗死したため出家。法名西光。のち後白河院の近臣として勢力をふるった。治承1 (1177) 年藤原成親らと鹿ヶ谷で平氏討滅をはかり,発覚して捕えられ,次いで斬殺された。 (→鹿ヶ谷事件 , 保元・平治の乱 )  

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原師光 ふじわらの-もろみつ

?-1177 平安時代後期の官吏。
藤原家成の養子。藤原通憲(みちのり)に近侍し,平治(へいじ)の乱での通憲の死に際して出家。のち後白河法皇につかえて第一の近臣と称される。鹿ケ谷(ししがたに)での平氏打倒の謀議が発覚(鹿ケ谷事件)し,安元3年6月1日処刑された。「平家物語」によれば,拷問の座で平清盛をののしった剛の者という。法名は西光

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原師光
ふじわらのもろみつ
(?―1177)

平安後期の廷臣、後白河(ごしらかわ)院の近臣。父母は不詳。藤原通憲(みちのり)(少納言信西(しんぜい)入道)に仕え、その推挙で左衛門尉(さえもんのじょう)となる。平治(へいじ)の乱(1159)で通憲が死ぬと出家して西光(さいこう)と名のり、のち後白河院の寵臣(ちょうしん)として威を振るった。1177年(治承1)4月、子の加賀守(かがのかみ)師高(もろたか)が延暦(えんりゃく)寺との紛争で尾張(おわり)に流されたのを憤り、院に奏して天台座主(てんだいざす)明雲(めいうん)を伊豆に流した。ついで6月には藤原成親(なりちか)、僧俊寛(しゅんかん)らと鹿(しし)ヶ谷(たに)で平家打倒の密議をめぐらしたが発覚、平清盛(きよもり)に憎まれ殺された。「法皇第一の近臣」として院に対する讒言(ざんげん)など専横の言動があったようだが(玉葉(ぎょくよう))、剛胆に清盛を面罵(めんば)して処刑された最期のありさま(平家物語)は、激動期に生きた権臣の面目を伝えている。[谷口 昭]

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世界大百科事典内の藤原師光の言及

【西光】より

…平安末期の院近臣。俗名藤原師光。父は中納言家成(白河院乳父顕季の孫)。…

【鹿ヶ谷事件】より

…1177年(治承1)後白河法皇の近臣が平氏打倒を企てた陰謀事件。権大納言藤原成親,僧西光(藤原師光)が中心となり,平康頼,僧俊寛,藤原成経(成親の子)らが加わった。俊寛の京都東山鹿ヶ谷の山荘で謀議をこらしたので,こう呼ばれる。…

※「藤原師光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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