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藤原清河 ふじわらのきよかわ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原清河
ふじわらのきよかわ

[生]?
[没]宝亀10(779).唐
奈良時代の廷臣。房前 (ふささき) の4男。天平 12 (740) 年従五位下,天平勝宝1 (749) 年参議,翌年遣唐使となり,同4年副使吉備真備 (きびのまきび) らとともに玄宗皇帝に謁し帰国の途中,暴風にあい安南に漂着,阿倍仲麻呂長安に戻り,唐朝に仕え特進秘書監となった。日本の朝廷では清河を帰国させるために使者をつかわしたが,安史の乱に妨げられて帰国できなかった。宝亀8 (777) 年次の遣唐使入唐したときも勅して清河に帰国を促したが,帰らなかった。

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百科事典マイペディアの解説

藤原清河【ふじわらのきよかわ】

奈良後期の高官参議。房前(ふささき)の子。生没年不詳。750年遣唐大使に任ぜられ,752年吉備真備(きびのまきび)らとともに入唐したが,帰国の途中安南(アンナン)に漂着,再び長安に帰り,以後唐朝に仕えて高官となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原清河 ふじわらの-きよかわ

?-? 奈良時代の公卿(くぎょう)。
北家藤原房前(ふささき)の4男。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年(749)参議。4年遣唐(けんとう)大使として入唐(にっとう)。鑑真(がんじん)の来日を要請し,5年鑑真らをともなって帰国の途につくが,清河の乗船は安南(アンナン)に漂着。長安にもどって玄宗皇帝につかえた。宝亀(ほうき)8年(777)前後に客死。贈従一品。唐名は河清。
【格言など】あらたまの年の緒長くわが思へる児らに恋ふべき月近づきぬ(「万葉集」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原清河

生年:生没年不詳
奈良時代の官人。藤原房前の第4子で,母は片野朝臣の娘。本名は清河で唐へ遣唐使として渡った際は河清を名乗ったという。天平12(740)年,従五位に叙せられ,以後中衛少輔,大養徳(大和)守,参議を歴任し天平勝宝2(750)年,遣唐大使に任命された。副使は大伴古万呂と吉備真備。天平勝宝4年日本を出発するに当たり,清河は「春日野に斎く三諸の梅の花栄えてあり待て還り来るまで」と詠んでいる。翌年1月の長安における朝賀に拝朝した。そのときの皇帝玄宗は,当時入唐していた留学生阿倍仲麻呂(唐名は朝衡)に命じて 大明宮中の府庫を案内させ,河清,古麻呂(胡万とも)らに三教殿,君主教殿,御披釈典殿宇などを見学させたという。さらに玄宗は,礼を守る使臣だとして河清,胡万,真備らの画を描かせたという。このとき河清を特進に胡万を銀青光禄大夫光禄卿,真備を銀青光禄大夫秘書監および衛卿に任じた。河清はまた,揚州竜興寺の鑑真の渡来を請い,帰国に際して鑑真を伴うこととした。鑑真を乗せた胡万の第2船は,天平勝宝6年無事日本に到着したが,河清の乗った第1船は阿児奈波嶋(沖縄)に着いたものの座礁して難破し,逆風のため唐国にもどされ,唐国の南辺驩州に漂着した。同船者はすべて殺害されたが,河清のみ免れ,ついに唐国にとどまって没した。日本の政府はその後,河清を迎えようとし,天平宝字3(759)年高元度を派遣し,また宝亀7(776)年にも遣唐使に付託したが果たされなかった。ただし,唐の女性との間にもうけた娘の喜娘らは帰国できた。

(鬼頭清明)

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのきよかわ【藤原清河】

奈良時代の廷臣。遣唐大使として入唐し,唐土で没した。生没年不詳。藤原不比等の孫,北家の房前(ふささき)の四男。740年(天平12)従五位下,中務少輔,大養徳守を経て749年(天平勝宝1)参議となり,翌年遣唐大使に任ぜられ,752年副使の大伴古麻呂,吉備真備らとともに入唐し,長安にいたった。入唐後,河清と称し,玄宗皇帝に拝謁して君子国の使臣と称賛され,翌年正月の諸蕃朝賀の儀式では,副使大伴古麻呂の抗議が入れられ,新羅の使臣より上位に列せられた。

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大辞林 第三版の解説

ふじわらのきよかわ【藤原清河】

奈良中期の廷臣。房前ふささきの子。752年遣唐大使として入唐。帰国途上に乗船が難破したため、河清と称して唐王朝に仕え、唐で没した。生没年未詳。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原清河
ふじわらのきよかわ

生没年不詳。奈良時代の官人。藤原北家(ほっけ)房前(ふささき)の第4子。中務少輔(なかつかさのすないのすけ)、大養徳守(やまとのかみ)を歴任して749年(天平勝宝1)参議に昇進。翌年遣唐大使に任命され、752年吉備真備(きびのまきび)・大伴古麻呂(おおとものこまろ)らとともに入唐(にっとう)し玄宗(げんそう)皇帝に拝謁した。翌年正月には朝賀の儀に参列し、そのとき日本は新羅使(しらぎし)と席次を争って第一位の席を得たという。帰国の途中、清河の乗船のみ暴風で唐の南方驩州(かんしゅう)に漂着し、同船者のほとんどが原地人に殺害されながらも、清河は命からがら逃げ延びて唐都にたどり着いた。その後、唐名を河清(かせい)と称して唐朝に仕え、特進秘書監に任用され皇帝からも厚い信任を得た。一方日本では759年(天平宝字3)清河を迎えるための使者が派遣されたが、安禄山(あんろくざん)の乱による唐の混乱のため連れ戻すことはできず、777年(宝亀8)の遣唐使でも女(むすめ)喜娘(きろう)のみが帰国し、清河は唐にとどまり、かの地で没した。没年はさだかでないが、『続日本紀(しょくにほんぎ)』は779年に薨伝(こうでん)を載せている。[菊地照夫]

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