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藤原房前 ふじわらのふささき

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原房前
ふじわらのふささき

[生]天武9(681)
[没]天平9(737).4.17.
奈良時代初期の廷臣。不比等の子。母は蘇我武羅自古の娘。藤原4家の一つ北家の始祖。慶雲2 (705) 年従五位下,養老1 (717) 年従四位下,参議。同5年従三位,同年 10月元明太上天皇の病気に際し,内臣 (うちつおみ) として帝業を補佐せよとの詔旨を受け,神亀1 (724) 年正三位となった。同3年授刀長官,近江,若狭按察使を兼ね,天平1 (729) 年中務卿,翌2年中衛大将,同4年東海,東山2道節度使となった。同9年4月,痘瘡にかかり没した。時に民部卿同年 10月正一位,左大臣追贈食封 2000戸を賜わり,天平宝字4 (760) 年太政大臣を贈られた。

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百科事典マイペディアの解説

藤原房前【ふじわらのふささき】

奈良前期の高官。不比等(ふひと)の子。北家(ほっけ)の祖。元明(げんめい)天皇に信任され,祖父鎌足(かまたり)と同じく内臣(ないしん)に就任。また参議,中務卿(なかつかさきょう),東海・東山両道節度使(せつどし),民部卿などの要職を歴任したが,流行の疫病で死んだ。
→関連項目藤原魚名

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原房前 ふじわらの-ふささき

681-737 奈良時代の公卿(くぎょう)。
天武天皇10年生まれ。藤原不比等(ふひと)の次男。母は蘇我連子(そがの-むらじこ)の娘,娼子。北家の祖。霊亀(れいき)3年(717)参議となり,元明上皇の没時には長屋王とともに後事を託される。正三位にすすみ,民部卿,初代の中衛(ちゅうえの)大将などをかねた。天平(てんぴょう)9年4月17日流行病で死去。57歳。正一位左大臣,ついで太政大臣を追贈された。「懐風藻」「万葉集」に詩歌がみえる。

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原房前

没年:天平9.4.17(737.5.21)
生年:天武10(681)
奈良時代の公卿。不比等の第2子。母は蘇我連子の娘娼子。藤原北家の祖。妻のひとりに継母,県犬養橘三千代の娘牟漏女王がおり,その子真楯はのちの摂関家の祖となった。大宝3(703)年,巡察使のひとりとして東海道に派遣されたのが史料上の初見(正六位下)。養老1(717)年には父不比等(右大臣)と共に参議に列せられている。父の没後も元明太上天皇の遺詔を右大臣長屋王とふたりで受け,また元正天皇からも帝業を輔翼するべく内臣という特別職に任じられるなど,両天皇の房前に対する信任はことさらに厚いものがあった。神亀1(724)年,聖武天皇の即位に当たり正三位に叙せられ,同5年には中衛大将(中衛府の初代長官)に任じられることがあったが,その後は兄武智麻呂の方が政界の地位は高まった。房前の皇親たちとの距離の近さが,藤原氏内部においてこのような処遇の違いになってあらわれたものと考えられる。天平9(737)年4月流行の天然痘により4人の兄弟の中ではいちばん早く死没した。同年10月正一位左大臣を贈られ,食封2000戸を20年を限ってその家に賜った。

(狩野久)

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのふささき【藤原房前】

681‐737(天武10‐天平9)
奈良前期の官人。藤原不比等の第2子で,藤原北家の祖。兄武智麻呂より1歳年少である。永手,真楯(八束ともいう),清河,魚名,御楯(千尋ともいう),楓麻呂らの父。また名前未詳の女は聖武天皇の夫人となっており,袁比良(おひら)(宇比良古)は藤原仲麻呂の妻となっている。さらに《尊卑分脈》《公卿補任》では鳥養(第1子)の父ともある。717年(養老1)10月,武智麻呂に先んじて朝政に参議した。これはおそらく父不比等の抜擢によるものであろう。

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大辞林 第三版の解説

ふじわらのふささき【藤原房前】

681~737) 奈良初期の廷臣。不比等の子。藤原北家の祖。参議。中務卿・東海東山両道節度使を歴任。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原房前
ふじわらのふささき
(681―737)

奈良時代の政治家。不比等(ふひと)の二男で北家(ほっけ)の祖。705年(慶雲2)に従(じゅ)五位下に叙せられてから昇進を重ね、717年(養老1)に参議となり、兄武智麻呂(むちまろ)、弟宇合(うまかい)、麻呂らとともに政界に重きをなした。721年には元明(げんめい)太上天皇はとくに右大臣長屋王と房前に遺言し、元明なきあとの不測の事態に備え、さらに房前を内臣(ないしん)に任じて元正(げんしょう)天皇を補佐させた。また728年(神亀5)設置の中衛府(ちゅうえふ)は藤原氏との関係が強く長屋王の変でも活躍するが、その最初の中衛大将は房前であったらしく、そのころきわめて重要な官人であった。天平(てんぴょう)9年4月17日、天然痘によって死去。3人の兄弟も同病で7、8月に死去した。[福井俊彦]
『野村忠夫著『律令政治の諸様相』(1968・塙書房) ▽笹山晴生著『中衛府の研究』(『論集日本歴史2 律令国家』所収・1972・有精堂出版) ▽中川収著『奈良朝政争史』(1979・教育社)』

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世界大百科事典内の藤原房前の言及

【大織冠】より

…その死骸を引き上げると玉は乳房を切り裂いて隠してあった。玉は興福寺の本尊の眉間に納められ,子は大臣藤原房前となった。これは海女が身を捨てて海中の玉を取る話だが,《日本書紀》允恭紀にあるように古い神話的原型に由来する。…

【藤原氏】より

…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家二条家一条家九条家鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…

【藤原不比等】より

…奈良時代初期の重臣。史(ふひと)とも表記。鎌足の次男で,母は車持君国子(くるまもちのきみくにこ)の娘の与志古(よしこ)。幼時は山科(京都市山科区)の田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)の家で育ったので,史と名づけられたという。父の死後3年目に起こった壬申の乱では,田辺一族から近江方の将軍となった者も出たが,不比等自身はまだ少年であったし,乱後の天武朝には,姉妹の氷上(ひかみ)や五百重(いおえ)が天武夫人(ぶにん)としてそれぞれ但馬(たじま)皇女や新田部皇子を生んだためもあって,順調に官途を歩みだしたらしく,持統朝で判事(はんじ)に任命されたときには,数え年31歳で直広肆(じきこうし)(従五位下相当)に昇っていた。…

※「藤原房前」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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