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阿倍仲麻呂 あべのなかまろ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

阿倍仲麻呂
あべのなかまろ

[生]大宝1(701)
[没]大暦5(770).1. 唐,長安
奈良時代の遣唐留学生,唐の官吏。父は中務大輔船守。養老1 (717) 年,押使多治比県守,大使大伴山守らの遣唐使に従って,吉備真備らとともに,遣唐留学生として入唐。仲満と名を改め,玄宗に仕えた。

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デジタル大辞泉の解説

あべ‐の‐なかまろ【阿倍仲麻呂】

[698~770]奈良時代の学者。遣唐留学生として入唐。玄宗皇帝に重く用いられ、朝衡(ちょうこう)と称した。乗船が難破して帰国できず、唐の地で没。

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百科事典マイペディアの解説

阿倍仲麻呂【あべのなかまろ】

奈良時代の文人。716年に遣唐留学生に選ばれ,翌年入唐。唐名,朝仲満など。玄宗皇帝に仕え,李白王維らと交わり,文名をあげる。752年,入唐した吉備真備らとともに帰国することを願い出て許され,鑑真らを伴って出航したが,彼の乗った船は安南(アンナン)に漂着,再び唐朝に仕え,客死。
→関連項目阿倍氏吉備大臣入唐絵詞

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

阿倍仲麻呂 あべの-なかまろ

698/701-770 奈良時代の遣唐留学生,唐(とう)(中国)の官吏。
文武天皇2/大宝(たいほう)元年生まれ。養老元年吉備真備(きびの-まきび),僧玄昉(げんぼう)とともに唐にわたる。科挙に合格し,玄宗皇帝につかえ,左補闕(さほけつ),秘書監,安南都護などを歴任。その間李白(りはく),王維らの文人とも交遊。遣唐使藤原清河(きよかわ)らと鑑真に来日を要請,みずからも帰国しようとしたが失敗,日本にはついにもどれなかった。神護景雲(じんごけいうん)4年1月死去。70/73歳。唐名は仲満,朝衡。
【格言など】天の原振りさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも(「小倉百人一首」)

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世界大百科事典 第2版の解説

あべのなかまろ【阿倍仲麻呂】

698‐770(文武2‐宝亀1)
奈良時代の文人。中務大輔船守の子。716年(霊亀2),19歳で遣唐留学生に選ばれ,翌年,遣唐使に従って入唐した。長く唐にとどまり,唐名を朝仲満,朝衡(ちようこう),晁衡(ちようこう)という。初め唐の太学に入り,科挙に登第,左春坊司経局校書をふり出しに左拾遺,左補闕などの官を歴任した。733年,入唐した遣唐使とともに帰国することを上請したが許されず,儀王(玄宗の子,李璲)の友に任ぜられた。752年,入唐した遣唐使藤原清河吉備真備らと帰国することを願い出て許可され,鑑真(がんじん)一行らをも伴って蘇州より出航したが,仲麻呂の乗った清河の船は安南(あんなん)に漂着,苦心の末長安に戻った。

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大辞林 第三版の解説

あべのなかまろ【阿倍仲麻呂】

698~770) 奈良時代の文人・遣唐留学生。姓は安倍とも。中国名、朝衡。717年、渡唐。玄宗に寵遇され、李白・王維らと交友があった。海難のために帰国が果たせず、在唐五十余年、同地に没す。「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌で有名。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

阿倍仲麻呂
あべのなかまろ
(698―770)

奈良時代の遣唐留学生、唐の官僚。中務大輔(なかつかさたいふ)阿倍船守(ふなもり)の子。安倍にもつくる。仲満とも記し、入唐後、朝衡(ちょうこう)と改名する。716年(霊亀2)7月、吉備真備(きびのまきび)らとともに遣唐留学生となり、翌717年(養老1)遣唐大使多治比県守(たじひのあがたもり)らに従って出発した。736年(天平8)10月、一度遭難して唐に戻った遣唐判官平群広成(へぐりのひろなり)が渤海(ぼっかい)経由で帰国することを学生仲麻呂が玄宗(げんそう)に奏上して許された。唐朝に仕え、司経校書(しけいこうしょ)、左拾遺(さしゅうい)、左補闕(さほけつ)、儀王友(ぎおうゆう)となる。753年(天平勝宝5)遣唐大使藤原清河(きよかわ)とともに僧鑑真(がんじん)に会い、その渡日を要請し、自らも帰国しようとしたが遭難し、ふたたび唐に帰った。その後、衛尉少卿、秘書監兼衛尉卿、唐の上元(じょうげん)年中(760~762)に抜擢(ばってき)されて左散騎常侍(ささんきじょうじ)、鎮南(改名して安南)都督となった。ほかに光禄大夫、右散騎常侍兼御史中丞(ぎょしちゅうじょう)、北海郡開国公ともいう。770年(宝亀1)正月、唐で没した。73歳。李白(りはく)、王維(おうい)ら唐代の文人多数と交際し、没後(ろしゅう)大都督を追贈され、日本でも正二品(ほん)が贈られた。帰国に関する漢詩2篇(へん)、歌1首を残すが、『古今和歌集』所収の「天の原ふりさけみれば春日(かすが)なる三笠(みかさ)の山に出でし月かも」は有名。[鈴木靖民]
『杉本直治郎著『阿倍仲麻呂伝研究』(1940・育芳社)』

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世界大百科事典内の阿倍仲麻呂の言及

【吉備大臣入唐絵詞】より

…同じ説話は大江匡房の《江談抄》にあり,この絵巻ももとはさらに帰国までの話を描いた1巻があったと思われる。内容は,唐土に着くなり高い楼上に幽閉された真備のところに,阿倍仲麻呂の霊が化した鬼が現れ,真備の威に服して助力を約束する。唐人は真備の才学を試すため,《文選》の解読,囲碁の勝負の難題を課するが,そのたびに仲麻呂の幽鬼に助けられて切り抜けるというもの。…

【留学】より

…しかし701年(大宝1)の遣唐使が派遣されるころから,留学生のほとんどは唐に渡った。とくに717年(養老1)に出発した遣唐使には吉備真備(きびのまきび),阿倍仲麻呂玄昉(げんぼう),大倭長岡(やまとのながおか)らが随行し,彼らの学業は長安でも高く評価されたという。仲麻呂はついに帰国できなかったが,真備らは大量の書籍や楽器などを持ち帰り,唐の文化の本格的な摂取の段階に入った。…

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