江戸時代、九州地方の幕府直轄領を支配した役職。日田(ひた)代官が格上げになったもので、1767年(明和4)揖斐(いび)十太夫政俊が任命されたのに始まり、郡代としては関東、美濃(みの)に次いで3番目に設置された。西国筋郡代は勘定奉行(かんじょうぶぎょう)の配下に属し、陣屋は豊後国(ぶんごのくに)日田郡豆田(まめだ)町(大分県日田市)に置かれ、永山布政所と称された。西国筋郡代の支配領域は、1776年(安永5)揖斐富次郎徸俊(ゆきとし)のとき、豊後、豊前(ぶぜん)、肥前(ひぜん)、肥後(ひご)、日向(ひゅうが)の5か国15郡にまたがり、石高(こくだか)にして15万石弱であった。これに兼帯支配の天草(あまくさ)を加えると17万1000石余に上った。この後、支配領域は変動したが、1838年(天保9)寺西蔵太元栄のとき、豊後、豊前、日向3か国11万7000石余であった。歴代の郡代では、土木工事・新田開発などで著名な塩谷大四郎正義(しおのやだいしろうまさよし)(1817~35在任)、最後の郡代窪田治部右衛門鎮勝(くぼたじぶえもんしげかつ)(1864~68在任)などがいる。
[豊田寛三]
『杉本勲編『九州天領の研究』(1976・吉川弘文館)』
豊後国(大分県)日田に設置された江戸幕府地方職制の一つ。勘定奉行に属する旗本役。関東郡代,美濃郡代,飛驒郡代とともに幕府の4郡代という。豊臣秀吉の太閤蔵入地を継承して成立した天領日田は,大名預所,譜代藩領を経て,1639年(寛永16)代官支配地となり,日田代官が設置された。ところが幕府の享保改革の後半,日田代官となった岡田俊惟(としただ)以来の年貢増徴策が認められ,日田代官は揖斐政俊の1767年(明和4)郡代に昇格した。揖斐氏4代のあと,西国筋郡代は羽倉,三河口,塩谷,寺西,竹尾,池田,屋代,窪田氏と激しく交代したが,一時日田は長崎代官高木氏の支配地になったこともある。その支配領域は豊後をはじめ豊前,日向,肥後,肥前,筑前の6ヵ国に及び,幕末の九州天領19万6000石のうち,83%にあたる16万4000石に達し,明治維新を迎えた。
執筆者:藤野 保
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…代官は,18世紀初頭までは大分郡高松(現,大分市)との交代在勤がとられたが,1724年(享保9)以降は日田在陣が常となった。67年(明和4)揖斐十太夫が西国筋郡代に任じられて以降,郡代在陣地として九州幕領支配の一中心となった。 隈・豆田両町は,筑後川舟運により北部や西部一帯と交通路が開けたため仲介商業が発展し,豪商が形成された。…
… 幕府領も日田,玖珠郡を中心に海部,大分,直入,速見,国東の各郡に分布している。幕府領は,一時期大名領などに編入されたが,17世紀の間は,日田と大分郡高田に置かれた代官所(陣屋)が支配し,18世紀初めからは日田代官所(のち西国筋郡代役所に格上げ,永山布政所)支配となっている(一部大名預りもある)。こうした諸藩領支配の複雑さから豊後国の近世政治支配の特徴を〈小藩分立〉〈犬牙錯綜〉と称される。…
※「西国筋郡代」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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