改訂新版 世界大百科事典 「美濃郡代」の意味・わかりやすい解説
美濃郡代 (みのぐんだい)
江戸時代,美濃国と伊勢国桑名郡の幕府直轄領を支配した役職。1662年(寛文2)以降は,羽栗郡笠松村(現,岐阜県羽島郡笠松町)に陣屋があり,笠松郡代とも呼ばれた。ただし美濃郡代は必ずしも常置される職ではなかった。というのは,代官のまま着任し,のちに布衣着用を許されて郡代に昇進した者が6人おり,ついに郡代にならなかった者も4人いたからである。このことは管轄区域の呼称に不統一を生じさせ,村方からの文書には〈御代官所〉と〈御支配所〉とが混用されている。
関ヶ原の戦後,美濃に新しく設定された幕府直轄地は,国奉行大久保長安の統轄のもとで複数の代官によって分割支配された。長安の死後,これら代官の一人である岡田善同(よしあつ)が国奉行の職に就くが,彼のそれまでの管轄地に対する支配と他の代官たちの支配は継続され,幕府直轄地が善同により一括して支配されることにはならなかった。その後,善同の支配を継承していくのが美濃郡代であり,支配高における優位性はつねに維持されつつも,分割支配の傾向は江戸時代を通じて続いた。美濃郡代のもとに地方(じかた)役所と堤方(つつみかた)役所があった。地方役所は年貢収納をはじめ民政をつかさどり,1839年(天保10)の《県令集覧》によれば,江戸詰として手付4人(うち元締1人),手代6人(うち元締2人),笠松詰として手付8人(うち元締1人,加判・公事方1人),手代4人(うち元締1人)で構成されていた。堤方役所は世襲の地役人12名からなり,交代寄合美濃衆高木三家の家臣の川通掛とともに木曾三川(木曾川,長良川,揖斐川)の治水にあたった。歴代には岡田将監善同(1613-31),岡田将監善政(1631-60)をはじめ,辻六郎左衛門守参(もりみつ)(1699-1718)や井沢弥惣兵衛為永(1735-37)がいる。
美濃郡代に関する文書,記録は大部分が散逸したが,岐阜県歴史資料館,名古屋市蓬左文庫に一部が保存され,岐阜県立図書館《郷土資料目録》,蓬左文庫《蓬左文庫古文書古絵図目録》に目録化されている。関連資料に第7代郡代辻守参の《辻六郎左衛門上書》がある。《岐阜県史》に関連文書が収載されている。
執筆者:西田 真樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報