西市場村(読み)にしいちばむら

日本歴史地名大系 「西市場村」の解説

西市場村
にしいちばむら

[現在地名]各務原市那加西市場町なかにしいちばちよう那加芦原町なかあわらちよう那加柄山町なかからやまちよう那加土山町なかどやまちよう那加琴が丘町なかことがおかちよう那加山崎町なかやまざきちよう那加東野町なかひがしのちよう那加山下町なかやましたちよう尾崎西町おざきにしまち尾崎南町おざきみなみまちなど

権現ごんげん山の八ヵ村入会地の南に位置し、南をさかい川が西流する。各務かかみ郡に属し、北西は枝郷桐野きりの村、南西は同岩地いわち村。更木さらき村とも称する。村名は事代主命を祭神とする市神いちかみ神社があったことによるという。慶長五年(一六〇〇)福島正則・池田輝政連署禁制折紙(写、赤座文書)は「さらき村中」に宛てられており、同年旗本徳山領となり、幕末に至る。慶長六年の徳山英久知行所村方条目(同文書)に「西市場村百姓中」とみえる。慶長郷帳では高七八四石余。庄屋役の赤座氏は越前国清水谷しみずだにの赤座弥助を祖とし、美濃の斎藤道三の家臣となって七郎右衛門政景と称した。

西市場村
にしいちばむら

[現在地名]池田市豊島北とよしまきた一―二丁目・荘園そうえん二丁目・八王寺はちおうじ二丁目

神田こうだ村の東にあり、村の南側を箕面みのお川がほぼ西流。古代の豊島てしま郡郡家の所在地を当地とする説、「太平記」巻一五(大樹摂津国豊島河原合戦事)に記される豊島河原を当地の箕面川原にあてる説などあるが、いずれも推測にすぎない。元文元年(一七三六)成立の豊島郡誌(今西家文書)などによると、当村にある市場古城に観応年間(一三五〇―五二)瓦林越後守が拠ったという。地名中世の定期市に由来すると考えられるが史料上の確認は得られていない。

西市場村
にしいちばむら

[現在地名]清洲町西市場

東を清洲西市場分・伊勢いせ町分、南を海東かいとう廻間はさま村、西を中島郡増田ました(現稲沢市)、北を同郡日下部くさかべ村・北市場村(現稲沢市)と接する。「徇行記」によれば概高四〇五石余のすべてが藩士八人の給知でこの村の百姓は清洲の西市場分・廻間分の地所を借りて居住しており、美濃路から八神街道へ入った街道筋に農家が建並び、農業を専ら生業としていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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