最新 心理学事典 「認知神経科学」の解説
にんちしんけいかがく
認知神経科学
cognitive neuroscience
【認知神経科学の始まり】 心は身体の中のどこにあるのか。古代ギリシア・ローマの時代から中世に至るまで,ガレノスGalēnosやアウグスティヌスAugustinus,A.に代表されるように,ヨーロッパにおいては,脳に知性の座があると考えられてきた。たとえば,アリストテレスAristotelēsは心臓にそれを求めたが,必ずしもそれが主流の考え方ではなかった。ただ,感情や情動になると多くの人はその座を心臓に求めたようである。ルネサンス以降,臨床観察と実験により,脳と心の関係は科学的に調べられるようになったが,その歴史は脳における心の機能局在functional localization(「脳における心の機能局在」とは,心あるいは知性をいくつかの機能に分け,脳の異なる部位がそれぞれの機能の座であるとする考え方)の精緻化の歴史といってよい。科学的機能局在研究は,18世紀中ごろのスウェーデンボリSwedenborg,E.の研究にその端緒を求めることができるが,皮質の機能局在は,ガルGall,F.J.の骨相学phrenologyによって一躍脚光を浴びることになる。ガルは,個々の精神機能は脳の特定部位に局在しており,どの機能が発達しているかは担当脳部位の大きさによって決まり,さらにそのために圧迫されて隆起する頭蓋の形態によって診断できると主張した。この主張は,科学的根拠に乏しかったため疑似科学として批判されることが多いが,その思想は弟子のブイヨーBouillaud,J.,さらにブローカBroca,P.P.らフランスの神経心理学者に引き継がれた。ブローカによる構音言語機能の左前頭葉局在発見につながるその後の貢献を考えると,骨相学の歴史的意義は大きい。
【動物モデルの導入】 19世紀後半になると,それまで脳に障害をもつ患者の観察しか方法がなかった脳機能研究に,動物を用いて脳を研究するという動物モデルanimal modelが導入される。当初は,イヌやトリを被験体とする破壊実験が主であったが,20世紀後半にエバーツEvarts,E.によって無麻酔ザルからの単一ニューロン活動記録法single-neuronal recording methodが確立されると,認知神経科学はマカク属の霊長類を使った単一ニューロン活動記録実験により大きく発展する。現在でも使われている注意attentionやワーキングメモリ(作業記憶)working memoryなど多くの高次機能の概念は,この手法を用いた研究に基づいている。また,薬物や電気刺激による局所脳部位の可逆的・非可逆的破壊技術や神経伝達物質neurotransmitterの測定技術の進歩により,動物実験はより精密に多面的になっている。後述する遺伝子改変技術の進歩による分子生物学的手法の導入は,その技術的制約から主にマウスやラットを使う研究で進んでおり,脳の高次機能研究もマウス・ラットを使う研究が増えてきている。しかし,これらの方法がマカクザルなどの霊長類に容易に適用できるようになれば,遺伝子改変技術を使った認知神経科学における動物モデルの中心は,再び霊長類を使ったものになることは間違いない。
【非侵襲的脳機能測定法の進歩】 ヒトの心の機能と脳の働きの対応関係を調べる技術は,20世紀末に飛躍的に進歩した。まず,コンピュータの普及により,それまで主に臨床場面で使われることが多かった脳波electroencephalogram(EEG)が事象関連電位event-related potential(ERP)という形で,脳の高次機能実験にも使われるようになった。その後,ポジトロン断層撮影法positron emission tomography(PET)や磁気共鳴画像magnetic resonance imaging(MRI),脳磁波magnetoencephalography(MEG)などの非侵襲的脳機能測定法の技術的進歩により,それまで臨床報告と動物実験に頼っていた脳機能研究に,認知課題遂行中のヒトの脳機能を測定することができる脳機能イメージングfunctional brain imagingという新たな研究法が加わることになる。とくに,課題遂行中の脳血流量の変化を測定する機能的磁気共鳴画像(fMRI)は,MRIの普及とともに急速に認知神経科学の方法の中心的存在となっていく。21世紀になると,心理学的問題だけでなく,経済学・倫理学・哲学・美学など人文社会科学における問題もfMRIを使った研究の対象となっており,神経経済学neuroeconomics,神経倫理学neuroethics,神経美学neuroaestheticsなどの新しい研究領域も生まれてきた。これらのヒトの高次な価値判断に関する研究の基礎となる意思決定decision-makingの脳メカニズムの研究は,20世紀末の主に動物実験から得られた報酬の脳内機構の研究知見を基に,強化学習理論reinforcement learningなど計算論的手法も導入されて,いまや認知神経科学の中心的研究領域となりつつある。
また,MRIなどの精密なイメージング技術は,損傷患者を被験者とする神経心理学neuropsychologyにも革命をもたらした。20世紀前半までは,X線があったとはいえ,患者の損傷部位を正確に同定するためには,死後の剖検を待つしかなかった。MRIの導入により,患者に負担をかけることなく,簡単に損傷部位を特定できるようになった。
【計算論的神経科学】 現代につながる認知神経科学に大きな影響を与えたのは,20世紀半ばに現われた情報理論information theoryとそれに続く計算理論computational theoryである。これらの工学的理論は,カハールCajal,R.以来20世紀になって急速に発展した脳の神経回路網とニューロンの情報伝達機構の理解と相まって,認知神経科学を単なる機能局在の理解のための学問から,脳がどのように情報を処理し,新しい情報を生み出すのかを知るための学問へと,その幅を広げていくことに大きな貢献を果たした。とくに,理論神経科学の分野では,マーMarr,D.に代表される計算理論など,実験や観察に基づく事実を理論的に体系化し,さらに実験的研究に方向性を与える研究も現われた。そこでは,心の機能を実現するための単位は,脳部位ではなく神経回路であると考え,さまざまな計算モデルが提案されているが,それを実証的に実験する手法の開発が進んでおらず,次に触れる分子生物学的手法の認知神経科学研究への導入が待たれるところである。
【分子生物学的手法の認知神経科学への導入】 21世紀になって急激に進歩した分子生物学的手法の神経科学への導入は,新しい可能性を生み出しつつある。前述したように,ルネサンス以降,神経科学の歴史は機能局在の歴史であったということができる。つまり,脳機能の基本的単位は何かを追究する歴史であった。機能局在の考え方は,ニューロンの実態が明らかになるとともに,一つのニューロンが特定の情報をコードしているとするおばあさん細胞仮説(自分の祖母を認識するためのニューロンがあり,その活動によって祖母が認識されるという仮説)に変化していった。さらにヘッブHebb,D.O.の提唱以来,特定の情報や機能はネットワーク化した細胞集団(神経回路)によってコードされるという細胞集成体説cell assembly theoryに代表される考え方が,広く支持されるようになってくる。しかし,脳機能の基本単位である神経回路の働きを実験的に測定することは,これまで不可能であった。近年の分子生物学的手法の進歩は,神経回路の研究にも変化をもたらそうとしている。たとえば,遺伝子を改変したアデノウイルスやレトロウイルスの毒性を取り除いて細胞に感染させることにより,生命機能に大きな影響を与えることなくタンパク合成にかかわる細胞内の遺伝子を書き換えることができるようになった。このような技術を,遺伝子改変のためのDNA/RNAをウイルスに運ばせるという意味で,ウイルスベクター法virus vectorとよぶ。これを利用したオプトジェネティクスoptogeneticsは,ウイルスに組み込んだ光受容イオンチャンネルの遺伝子を,感染したニューロンで発現させ,ニューロンの電気的活動を光で制御しようとするものである。ウイルスは,ニューロン間のつながりを介して感染していくので,特定の神経回路だけでウイルスに組み込んだ遺伝子が発現することも可能となる。これを適用した動物(現段階では主にマウス)の行動分析を行なうことにより,脳部位ではなく神経回路の機能を調べようとする研究がすでに始まっている。将来,マカクザルなどヒトに近い動物に適用されることにより,ヒトの高次脳機能の基礎の理解は飛躍的に進むことが期待できよう。 →意思決定 →記憶 →神経系 →認知 →認知心理学 →脳機能研究法 →非侵襲的脳機能研究法
〔坂上 雅道〕
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