日本大百科全書(ニッポニカ)「情動」の解説
情動
じょうどう
emotion
一時的で急激な感情をとくに情動という。人間でいえば、喜び、悲しみ、怒り、恐怖、不安というような激しい感情の動きのことである。英語ではエモーションemotionで、その語源は、ラテン語で「揺り動かす」とか「かき回す」という意味である。感情を表すフィーリングfeelingの語源がラテン語の「触れて感じる」であるから二つの概念の差異がよく理解されると思う。情動とはその語源がよく表現しているように力動的(ダイナミック)なものなのである。
喜怒哀楽…といったような情動がどのように発達(分化)してくるかについては、ブリッジスK. M. B. Bridges(1897―?)の有名な研究がある。それによれば、新生児の情動は興奮だけであるが、そこから快と不快の2方向が分化し、さらに快から得意、大人に対する愛情や喜びが分化する。また不快からは怒り、嫌悪、恐怖、嫉妬(しっと)が分化する。そして、2歳ごろまでには人間としての基本的な情動が出そろうという。なお、幼児期になると、羨望(せんぼう)、失望、不安、羞恥(しゅうち)、希望などの情動も発現し、5歳ごろまでには大人にみられる情動のほとんどが出そろってくるとのことである。しかし、スルーフL. Alan Sroufeによれば、乳児期の初期にはすでに喜び、怒り、恐れなどの情動が存在し、それらが社会性や認知的な発達によってさらに分化を繰り返していくという。ブリッジスの研究は1932年に発表され、日本の発達心理学書にはたいてい載っている古典的労作である。これに対してスルーフの研究は80年以降の認知心理学の発達の影響を受けたものである。
[大村政男]
情動の表出
情動の表出は、顔面表情、身ぶり(全身的表現)、音声などのように外面から観察可能なものと、呼吸、心拍、発汗などの微細な変化のように特殊な記録装置によって知られるものとに大別することができる。顔面表情は種族・民族によって独特なパターンがある。日本人は白人から英語で話しかけられると意味がわからないのに微笑することが多い。この日本人の微笑(ジャパニーズ・スマイル)はしばしば誤解のもとになるといわれている。身ぶりについては、進化論を唱えたダーウィンの「有用な連合的習慣の原理」という法則がある。これは、もともと実用的な効果をもっていた動作が習慣となって、後の世代に伝達されていくことである。怒り狂ったイヌは歯をむき出しにして相手を威嚇するし、人間でも怒ったときには、唇をゆがめ犬歯をのぞかせてしまう。人間における犬歯の存在も野生時代の名残(なごり)なのである。泣き声や笑い声のような音声は、乳幼児期における情動理解の鍵(かぎ)になるが、成長とともに社会的影響を受けて生地が隠れてしまう。とくに泣き声や怒声は表出されにくくなってくる。
情動が生起しているときの呼吸の乱れは、ニューモグラフ(伸縮性をもつ管を胸部に巻き付けて、その伸縮によって呼吸を記録する装置)によって測定している。呼吸の乱れは驚きや恐怖でもっとも激しく、笑いや日常会話のときにもっとも緩やかである。心拍は、心電図(心臓の拍動に伴う心筋の活動を増幅記録する装置)や容積脈波(末梢(まっしょう)部に蓄積される血液の量的変動によって、情動の変化をとらえようとするもの)などによって測定される。皮膚にみられる情動の表出は、発汗、立毛、皮膚温度の変化としてとらえられる。発汗や皮膚温度の測定はよく知られているが、微細な発汗は電気的皮膚反射(GSR)によって測定されている。電気的皮膚反射は、うそ発見器という俗称でよく知られているが、うそ発見器は、発汗だけではなく呼吸や血圧の変化をも測定できる総合的な記録装置である。電気的皮膚反射は一般に手掌部で測定されるが、足の裏やわきの下でも測定することができる。
[大村政男]
内分泌腺との関係
情動はこのように身体内外の変化を伴うが、内分泌腺(せん)との関係もまた重要である。これについてはキャノンW. B. Cannon(1871―1945)の緊急反応に関する学説と、セリエの警戒反応に関する学説がある。
[大村政男]
キャノンの緊急反応
キャノンは怒りや恐怖のような情動が生じると、中枢から交感神経系に刺激が送られ末梢に衝撃が到達し、副腎髄質(ふくじんずいしつ)からアドレナリンが分泌され、血糖の増加、血圧の上昇、心臓の拍動の昂進(こうしん)、血液の凝固力の強化が生じ、人間やその他の動物が緊急事態に対して強力になることを指摘した。キャノンはこのような生活体の反応を緊急反応と命名している(1929)。
[大村政男]
セリエの警戒反応
1947年、セリエは危険な刺激、すなわち非常刺激が人間やその他の動物に加わると、脳下垂体前葉からACTH(副腎皮質刺激ホルモン)が分泌され、これが副腎皮質ホルモン(コーチゾン)の分泌を促進し、さらにコーチゾンが各臓器に作用して抵抗力を生じさせるという学説を唱えた。これがセリエのストレス学説で、彼はこのような反応を警戒反応と名づけている。
人間や動物はストレス状態に陥ると、生理的な警戒体制を総動員して抵抗していく。しかし、この状態が長引くと心身の体制が崩壊して病気になってしまう。リウマチ、高血圧症、胃腸などの潰瘍(かいよう)、神経痛、アレルギー性喘息(ぜんそく)、性器に関する障害などもストレスによって生じるといわれている。白ネズミをネコの監視のもとで飼育すると、胃腸の潰瘍をおこして短期間に死んでしまうことが報告されている。人間でも同じことがいえる。そこで、情動の保健衛生、広くいって感情生活の安定ということが必要になってくる。
[大村政男]
シャクターの情動の2要因
キャノンやセリエの学説は生理的な領域からのものであったが、シャクターStanley Schachter(1922―97)らは1962年、心理学の見地から情動反応について新しい学説を発表した。それは情動の2要因説とよばれている。この学説は、喜怒哀楽というような情動の経験は、自律神経系の活性化だけではなく、周囲の状況に基づく解釈も重要な要因として参加しているというのである。すなわち、激しい情動を経験したときには、生理的喚起(例、心臓の拍動の昂進)と、それがどんな場面でおきたかという認知的なラベリングの2要因が必要だというのである。高所から下を見たときもドキドキする。好きな異性に近づいたときもドキドキする。この二つのドキドキは同じものである。異なっているのはその人が置かれた状況だけなのである。アドレナリンを注射しても人間は周囲の状況によって異なった情動反応をすることが実験で確かめられている。
[大村政男]
情動の精神保健
情動の表出の仕方は社会的・時代的環境に左右される。環境が不安定になると、無分別な表出が盛んになり、行動も短絡反応(近道反応)になりがちである。カウンセリングや精神療法が、現代人に欠くことができないものになっているのはそのためである。
[大村政男]
『G・マンドラー著、田中正敏・津田彰監訳『情動とストレス』(1987・誠信書房)』▽『堀哲郎著『脳と情動――感情のメカニズム』(1991・共立出版)』▽『安田一郎著『感情の心理学――脳と情動』(1993・青土社)』▽『伊藤真次・熊谷朗・出村博編『情動とホルモン』(1997・中山書店)』▽『坂元忠芳著『情動と感情の教育学』(2000・大月書店)』▽『ジョセフ・ルドゥー著、松本元・川村光毅他訳『エモーショナル・ブレイン――情動の脳科学』(2003・東京大学出版会)』▽『リチャード・S・ラザルス著、本明寛監訳、小川浩他訳『ストレスと情動の心理学――ナラティブ研究の視点から』(2004・実務教育出版)』▽『ルック・チオンピ著、山岸洋他訳『基盤としての情動――フラクタル感情論理の構想』(2005・学樹書院)』▽『國安愛子著『情動と音楽――音楽と心はいかにして出会うのか』(2005・音楽之友社)』▽『福田正治著『感じる情動・学ぶ感情――感情学序説』(2006・ナカニシヤ出版)』